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巡礼・お遍路へ

■ 招福の神、七福神
 七福神は、七つの災いを除き、七つの幸せを与える神です。そして七福神は、人に七つの道を示し人々に七つの徳をそなえさせる福神であります。
 昔から昨年の不幸は流してしまい今年は幸せであることを願い、正月の七福神詣でが盛んにおこなわれてきました。
 七福神は、それぞれ各社寺に祀られ、参詣されてきましたが、江戸時代になって、七つの福神を参詣することが流行しました。「七」という数字が、調える意味をもち、おめでたい数字であることから、七つの七福神が、招福の神々として信仰されるようになりました。


平成廿九年
 丁酉歳
一月六日日本橋七福神詣
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平成廿八年
 丙申歳
一月四日江戸最初山手七福神
平成廿七年
乙未歳
一月五日武蔵野吉祥七福神
平成廿六年
甲午歳
一月六日 柴又七福神
平成廿五年
癸巳歳
一月四日新宿山ノ手七福神 一月五日 隅田川七福神 一月六日 小田原七福神
平成廿四年
壬辰歳
一月四日鎌倉江の島七福神 一月五日 下谷七福神
平成廿三年
辛卯歳
一月四、五日 都七福神 一月四、五日 都七福神 一月八日 谷中七福神
一月九日 深川七福神
平成廿二年
庚寅歳
一月四、五日三浦七福神 一月六日浅草名所七福神 一月七日小江戸川越七福神
平成廿一年
己丑歳
一月七日隅田川七福神


■ 七福神のおこり
 七福神は、七難を除き、七福を与える神々です。将軍徳川家康が、天海僧正に
「国が栄えるようになり、人徳がたかまるようにするには、どのような道が大切であろうか」と質問されたのに対し、僧正は
「仁王護国般若波羅密経(仁王経)などの経典に説かれている教を大切にすれば、七難即 滅し、七福即生します」
と答えました。さらに家康は
「七福とは、なにか」僧正は
「七福とは、寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量であります」と答え、
この七つの福徳が、人生にとって、大切であることを説明しました。
 家康は、早速、狩野派の画家に、七福の神々を画かしめました。このことが、七福神の始まりであるといわれています。
 一説によりますと、七福神詣では、室町時代において、すでにおこなわれていたともいわれています。


■ 七難と七福
 七難のことは、仁王経や法華経その他の経典に説かれ、内容は大同小異であります。
仁王経によりますと、つぎの天災、人災が七つ説かれています。
  1 日月の難
  2 星宿の難
  3 火災の難
  4 水害の難
  5 風害の難
  6 旱魃の難
  7 戦乱盗賊の難
 七福の徳目とそれをつかさどる福神は、つぎのとおりです。
  1 寿命 寿老神
  2 有福 大黒天
  3 人望 恵比須神
  4 清簾 布袋尊
  5 威光 毘沙門天
  6 愛敬 弁財天
  7 大量 福禄寿
 ところによっては、寿老神のかわりに、吉祥天を配する七福神があります。

■ 宝船
 七福神は、最初、七福神を宝船に乗せた画から一般にひろまったようです。江戸時代初期から、七福神を乗せた宝船の画を、正月二日、枕の下に入れて寝ると、吉夢を見るということが、盛んにおこなわれるようになりました。宝船のことを「おたから」といい、正月二日、おたからを江戸の町に売り歩くのを、お宝売りといいました。
 この宝船の画に、聖徳太子の作とつたえる回文歌を書き添えました。回文歌は、上から詠んでも下から詠んでも、同じ歌であります。

  ながきよのとをのねぶりのみなめざめ
        なみのりぶねのおとのよきかな

 七福神の画は、明和五年(一七六八年)円山応挙三十六歳の描いた七難七福図三幅が、有名です。これは大津の円満院に安置され、国の重要文化財に指定されています。そのほか広重、豊国、国貞たちの画いた七福神の錦絵が、知られています。

■ 七福神
 七福神の神々は、もともとインド、中国、日本の三か国の七人の神が組み合わさって、人々に福、徳、寿などを与える神々として生まれました。
 七福神の信仰を世の中に広めたのは、江戸時代初めに上野の寛永寺を開いた天海大僧正だといわれています。
大僧正は家康公に対し「公はこの乱世を治め、天下泰平の基(もとい)を築く福徳を備えている」と述べ、合せて七福神のもつ七つの福徳を書いて示しました。
 すなわち、寿老人の寿命、福禄寿の人望、恵比寿の正直、布袋(ほてい)の大量、毘沙門天の威光、大黒天の財富、唯一の女神である辨財天(べんざいてん)の愛敬(あいきょう)という訳です。家康公はこれを見て大いに喜び、すぐに狩野探幽(かのうたんゆう)に命じてこの七福神の画を描かせました。これが今日わたしたちがよく見かける七福神の画の最初だといわれています。もっとも、今日のように七福神信仰が盛んになったのは、江戸時代の後期の1800年代に入ってからのことと考えていいでしょう。
 ところで、「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」というお経には、「七難即滅、七福即生」と説かれています。七難は、薬師経や観音経にも説かれていますが、例えば火難、水難、盗賊難などの七つです。この七難を消滅すれば、七福が生ずるという訳です。実はこのお経の文句にあやかって、七福神の信仰が生まれたのです。では、その七福神とはどんな神様なのでしょうか。

(一) まず長寿をあらわす寿老人は、白髪の円満なお顔の老人で、よく傍(か たわら)に鶴と鹿が描かれます。この神は
   南極星が神格化された神で、人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれています。
(二) 人望をあらわす福禄寿は、長い頭をした老人で、杖(つえ)をもっています。頭と胴が相半ばする程の長頭は人望を
   あらわしています。この神もやはり南極星が神格化された神なのです。
(三) 正直をあらわす恵比寿は、大黒天即ち大国主命(おおくにぬしのみこと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だと
   いわれ、このため恵比寿・大黒といってこの二神を並べて祀るのです。この恵比寿は裸に近い格好で鯛を抱え、
   おおらかにほほえむお姿で、まさに足ることを知った無欲な神なのです。天海大僧正もよく引用された古歌「事たら
   ば足るにまかせてことたらす足らずことたる身こそ安けれ」の一首は正にこの神の心をよんだものといえそうです。
   この知足の心は素直で正直な心から生れるので、この神は正直をあらわすとされました。
(四) 大量をあらわす布袋は、契此(けいし)という中国実在のお坊さんでいつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれ
   ました。後には、辞世の文句から弥勒菩薩の化身として崇められましたが、その大変大きなお腹から度量の広い
   大量の神ともされたのです。
(五) 威光をあらわす毘沙門天は多聞天とも呼ばれもともと帝釈天の四天王の一人ですが、その武装したお姿から威光
   をあらわす神と考えられました。
(六) 財富をあらわす大黒天はもともとは武力の神でしたが、後にインドのお寺の台所に祀られ、毎日油で身体を拭われ
   たため、真黒になったので大黒天と呼ばれました。わが国では大黒は大国(だいこく)に通じることから大国主命と
   同じ神とされ、さらに、物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたため、財富をあらわす
   神とされたのです。
(七) 愛敬をあらわす辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎから音楽、芸能を、また「水を治める者は
   国を治む」ということから武力、そ して河川は肥沃な土地を造り、生産物を生むことから財富を司どる神〈辨財天〉
   ともされました。また、同時にその優しいお顔やお姿から愛敬をあらわす神とも考えられたのです。
 
 わたしたちは今でもよくこの七福神が一つの船に仲良く乗った宝船の画を見ますが、そこには、わたしたちがこの七人の神々を信仰することによって、七つの福徳をこの一身にうけ、社会の荒波を無事に乗り切っていけるようにという大きな願いが込められているのです。
                                                        天台宗 法話集より


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