小 江 戸 川 越 七 福 神

六番寺 壽昌山 了心院 見立寺 布袋尊

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平成廿二年一月七日
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壽昌山 了心院 見立寺


御本尊 阿弥陀如来



浄土宗
御朱印 布袋尊


 
小江戸川越七福神 色紙



秋の七草:(くず)


葛は昔、大和の国・栖(くず)の人がくず粉を売り出したので出た名といわれ、
根から葛粉がとれます。
又、葛根湯は風邪薬になります。

花言葉―根気、努力

山の辺ににほひし葛の房花は
     藤波よりもあはれなりけり   斎藤茂吉



水琴窟

水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた
排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。
甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、
甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから
「水琴窟」と呼ばれるようになりました。



見立寺の縁起
見立寺は、北条氏康の子感譽上人(天正二年1574年寂)を開山として、感譽上人の菩提を弔うため、
蓮馨尼が蓮馨寺境内に建立寺と称して創建、その後火災を避けて当地へ移転したといいます。


新編武蔵風土記稿による見立寺の縁起
(高澤町)見立寺
壽昌山了心院と號す、浄土宗、當所蓮馨寺の末寺なり、開山感譽の地に遊行して終る所をしらず、
故に其首途せし
天正二年五月十八日を以て、暫らく命日とす、感譽俗姓は北條氏にて氏康の子なり、
城主大道寺駿河守政繁が母、法諡實泡院柔譽光澤蓮馨とて、永禄十年八月十二日卒す、
この人蓮馨寺起立の時、假堂をかの境内に建置しが、蓮馨財をすてて永續せしめ其菩提を祈りしとぞ、
其頃は寺號も建立寺とかきて、かの寺の塔頭なれども、火災をさけて後にこの所へうつりしなり、
今も蓮馨寺の境内に六段畑と云所あり、是當寺の舊跡なりと云、
本尊三尊の彌陀を安ず、又内佛に彌陀の像あり、長一尺四寸、聖徳太子の作と云。
秋葉社(新編武蔵風土記稿より)



布袋尊は中国唐代の禅僧で名は契此。
小柄で太鼓腹、大きな袋を担って各地を放浪し、吉凶を占い、
福を施して倦むことがなかったといいます。
又、未来仏たる弥勒菩薩の化身ともいわれ、昔から崇められてきました。
御真言「オンマイトレイヤソワカ」


                  

12時15分 蓮馨寺を発ちました。 県道39号川越坂戸毛呂山線を進みます。 亀屋
club KURA 亀屋 迎春
亀屋 仏具店上州屋 人力車
天あさ 浪漫茶房右門 町屋の膳 いもおこわ ¥1050
門松 県道39号線 壽 寅   初売完初
武州 川越

くらづくり本舗

芋菓子専門店 芋福蔵
手打ち そば 寿庵
川越の町割(十ヶ町四門前)

川越の町割の基礎は、川越城主・松平信綱の時代(1639~1662)にできました。
江戸町、本町、南町、喜多町、高沢町の上五ヶ町と上松江町、多賀町、鍛冶町、鴫町、志多町の下五ヶ町の十ヶ町と養寿院、行伝寺、蓮馨寺、妙養寺の門前町を合わせ、十ヶ町四門前としました。
昭和三十六年の町名地番改正により往時の名は変わってしまいましたが、随所にその名残を見ることができます。


そば寿庵 つけもの小江戸 茶そば 寿庵 手打蕎麦 営業中 門松
埼玉りそな銀行川越支店 元祖芋菓子 龜屋 陶器専門店 やまわ
町家 宮岡刃物店 漬物 河村屋 門松
掛軸と額縁 深善 川越一番街 おぼろ豆腐  かねつき通り入口 時の鐘が見えてきました。
時の鐘
旧 多賀町 藥師神社
旧多賀町  現 幸町 他

多賀町は昔桶屋が開いたので箍町と
呼んでいたが、音を通じて多賀町と改
めた。桶師取立の町として城主に桶大
工の役銭を毎年出して諸役は免除の所
であったと言われる。時の鐘は寛永の
頃酒井忠勝が城主の時に造られ現在の
鐘楼は明治二十六年の川越大火の後元
の姿のままに再建されたものである。
この鐘の傍に薬師と稲荷社があり薬師
は昔本町から移したものである。


残したい日本の音風景百選
平成八年七月一日環境庁認定

川越の時の鐘

 私たちは、日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音に囲まれて生活しています。
 環境庁は、全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」として認定しました。
川越市では、江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」が認定されました。
いつまでも人々の心に響く、鐘の音と蔵造りの町並みがつくり出す音風景を大切にしていきたいと思います。
川越市

川越の時の鐘
平成八年七月一日環境庁認定
残したい日本の音風景百選

時の鐘・薬師神社
時の鐘
時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは16メートルあります。平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。


時の鐘
川越薬師如来 薬師神社の由来
 薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆盛、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。
ここから時の鐘の内部が見えます。
川越薬師如来
薬師神社の由来について
当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺という寺であったが明治維新の折薬師神社となった。明治二十六年川越大火により時の鐘と共に消失翌年再建された御本尊は薬師如来の立像で高さ六十糎行基菩薩の作という。五穀豊穣・家運隆昌・特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果がある。尚、向かって右奥の稲荷社は出世 開運 合格に著しいご利益がある。

時の鐘の撞き棒
青面金剛 稲荷大明神 この階段で上がるようです。
正一位出世稲荷大明神 金比羅宮
かねつき通り とりせい 海鮮料理 近長魚店 創業明治八年 福呂屋
川越名物 鐘つきうどん きんちょう いもうどん いも天せいろ 天せいろ 武州川越町
近長 細田長兵衛商店
電信器號0三
近長 県道39号線 川越坂戸毛呂山線に戻ります。 川越地酒
大和屋 川越市蔵造り資料館
蔵造りの町並み
 
重厚な蔵造りは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれました。その伝統的な町家群に加え、近代洋風建築など永きにわたる多様な様式の建物が連なる町並みは、江戸時代から現代へ至る変遷を示し、特色ある歴史的景観を伝えています。
 現在の東京では見られなくなった、江戸のたたずまいを彷彿させる町並みは、次代に伝える貴重な文化財として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
川越市蔵造り資料館 蔵造りの町並み

国選定

川越市川越伝統的建築物群保存地区


旧南町(ミナミマチ)
  現 幸町他
札の辻より行伝寺入口周辺までを指す。
旧十ヶ町のうち上五ヶ町の一。
昔は灰市場と呼ばれていた。
川越でははじめ他の町に市がなく当町にだけ一ヶ月に六斎の灰市が立っていたと言う。
後に、川越の街路の起点である札の辻の南にあるため南町と名付けられた。
また、江戸時代よりすでに市中第一の繁華といわれていた。
なお、昭和三十六年に現町名となった。

小江戸横丁
釜めし 小江戸横丁 ラーメン 桜庵
子育稲荷神社
川越 龜之助商店 なつかし玩具 川越てぬぐい 伝統的建造物 川越市教育委員会
コーヒー 江戸浮世絵展
休憩用の椅子でしょうか。 曹洞宗 養壽院
大銀杏 錦鯉 うなっ子
錦鯉 うなっ子 歓迎 菓子屋横丁

菓子屋横丁

菓子屋横丁は、江戸時代の末期から
明治時代の初めごろに、江戸っ子好みの
気取らない菓子を製造したのが始まりと
いわれています。関東大震災で大きな
被害を受けた東京に代わって全国への
製造・供給を賄い、昭和初期には、
約七十軒が軒を連ねていました。
平成十三年には環境省の「かおり風景
百選」に選定されています。

菓子屋横丁 味マップ  よりどり3ヶ

1000円
福を招く ぎんなん細工 手づくり飴 玉力製菓 ニッキ飴 創業明治二十年 松本製菓
お休み処 よしおか ニッキ飴 松本製菓 手造り納豆 小江戸茶屋
あめ細工 玉力製菓 創業寛政八年  老舗 松陸 ふ菓子 大黒棒
芋松葉320円 限定品(紅あずま)320円 わざわざ割りました 手焼きせんべい 割餅 味しみせん 雷神堂 
カルメ焼 �吉仁製菓 菓子屋横丁を出ると新河岸川です。 見立寺入口です。

小江戸川越七福神
見立寺(けんりゅうじ)(浄土宗)元町二―九
第六番  布 袋 尊
布袋尊は唐の禅僧で名は契此といいました。
小柄で太鼓腹。大きな袋を背負って放浪し福徳を施したといい、世人は弥勒菩薩の化身とも
いって尊びました。
秋の七草   葛
山の辺ににほひし葛の房花は
藤波よりもあはれなりけり
斎藤茂吉
葛は昔大和の国栖(くず)の人がくず粉を
売り出したので出た名といわれ、根から
葛粉がとれます。
又葛根湯は風邪薬になります。
花言葉―根気、努力
小江戸川越七福神霊場会
(社)小江戸川越観光協会

浄土宗 見立寺
平成二十二年十一月三日~五日
受 戒 会
五重相伝会
平成二十三年十一月三日~七日
13時06分 境内に入ります。
旅立ちの法然さま
旅立ちの法然さま

           (十三才当時のお姿)
美作国(岡山県)で武家に生まれた
浄土宗の宗祖法然上人は、九歳の時
父を夜襲で失いました。
その時の遺言は「汝、決して敵を
討つ事なかれ、出家して悟りの道に
進むべし。」というものでした。
そして四年間岡山で仏教の基礎を
学び、その後本格的に仏道を進んで
行く為、京都の比叡山へ旅立つこと
になったのです。
「誰もが平等に救われる
       仏の教えを見つけたい」
その一歩を踏み出す、
その時のお姿です。

赤穂浪士

矢頭右衛門七妹の墓
多加谷家 照光院好誉妙相大姉
明和五年三月廿三日 没

(六地蔵の隣)


赤穂浪士
矢頭右衛門七妹の墓
多加谷家
照光院好誉妙相大師
明和五年三月廿三日没

六地蔵 幟「小江戸 川越 七福神」   本堂
三つ鱗 扁額「壽昌山」 御本尊「阿弥陀如来」
七福神「布袋尊」 小江戸川越七福神御宝印所 回向柱
本堂 布袋尊

徳本上人 名号碑
  (念仏教化の祈念碑)

この名号碑は、徳本上人が亡くなる一年前に、川越へ布教に来たときに造られた祈念碑である。
独特の丸い文字は「徳本文字」として名高い。
名前の「徳本」の下にある落款は
「鬼くだく 心を丸く 田の中に 南無阿弥陀仏と 月のおもかげ」という意味が含まれているという。

徳本  (宝暦八年 一七五八 ~ 文政一年 一八一八)

江戸時代末期の浄土宗僧侶。
和歌山県生まれ、幼少より信心篤く、両親に出家を請うも許されず、
二十六歳(一七八四)にようやく母の許しが下りて出家する。
ひたすらに念仏を唱え、礼拝をし、膝が藥研のごとく割れたとまでいわれている。
念仏弘通の為に全国を廻り、説法をし、名号札を配って歩いた。
それを求める人は、「まるで朝市が開かれている様だ」と、形容されるほど多くの人が列をなしたという。

本堂前に群がる大勢の参拝客 まだ坂を上って来る人たちが大勢います。
駐車場に観光バスが留まっていました。 新河岸川に少し沿って歩いて、次の霊場に向かいました。