小 江 戸 川 越 七 福 神

四番寺 成田山 川越別院 本行院 恵比寿天

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平成廿二年一月七日
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成田山川越別院 本行院


御本尊 不動明王



真言宗智山派
御朱印 毘沙門天



小江戸川越七福神 色紙




秋の七草:撫子(なでしこ)
河原撫子は河原辺に生える可憐な花の意味で、
美しい薄紅色の花を開かせます。
花言葉―貞節

なでしこが花見る毎にをとめらが
   ゑまひのにほひ思ほゆるかも  万葉集巻十八良



水琴窟
水琴窟は江戸時代の茶人、小堀遠州が考案したとされます。
ためられた水を地面に埋まっている甕(かめ)の底にあけた穴から一滴ずつ落とすと
甕に反響して琴のような音色を楽しむことが出来ます。



成田山川越別院の縁起
成田山川越別院は、嘉永六年(1853)廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれています。関東三十六不動27番不動、小江戸川越七福神の恵比寿天です。
成田山川越別院は、川越別院成田山本行院と称し、いつの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。
本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。
当寺は、江戸時代も末の嘉永六年(1853)、ペリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に下総の国新宿(現葛飾区新宿)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。       
石川照温については、次のような話が伝えられている。
農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えなくなってしまった。
光明を亡くした照温は、ある日のこと自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに仏道に目覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのことである。
なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。                     (川越市掲示より)


川越歴史博物館 交通安全祈祷所
大本山 成田山川越別院 本堂
小江戸 川越 七福神 福壽殿

恵比寿天のぼり幡奉献のお勧め

恵比寿天 大黒天

小江戸川越七福神
成田山
(真言宗) 久保町九―二
第四番    ゑびす天
恵比寿様は「福の神」の代表で、
農村では、田の神、街では市神、
福利を招く神として、鯛を抱いた
福々しい相好でなじみ深く、人々
から深い信仰が寄せられています。

秋の七草  撫 子 なでしこ
なでしこが花見る毎にをとめらが
ゑまひのにほひ思ほゆるかも
                万葉集巻十八
河原撫子は河原辺に生える
かれんな花の意味で、美しい
淡紅色の花を開かせます。
花言葉―貞節
小江戸川越七福神霊場会
(社)小江戸川越観光協会


開山堂
 成田山川越別院本行院は江戸時代末期に石川照温師によって開創されました。
 師は幼い頃から波乱に富んだ生活を送る中、両眼を失明しました。
絶望の末に三度も自殺を図ったが果たされず、
これは神仏が未だ自分をお見捨てにならないからだと信じ、
千葉県の成田山新勝寺に於いて断食の苦行に入りました。
 この修行で見えなかった両眼が少しずつ見えるようになり、
遂に満願の頃には全く平癒することが出来たのであります。
そのため不動明王の大慈悲に心から感激した師は
一生を不動明王に捧げようと新勝寺で出家得度しました。
 その後不動明王の御霊徳を世に広めるために諸国巡礼の旅に出ると、
各地で師の徳を慕い集まってくる人が増えました。
 そこで地元の有力者が、師にここ川越の地に安住していただこうと、
廃寺になっていた本行院を再興しました。
そして嘉永六年に成田山貫首照輪上人が
御本尊不動明王の御分霊を照温師に授与せられました。
これが成田山川越別院本行院の起源となり現在に至ります。

 眼病平癒
         祈願絵馬
 視力回復  

 不動明王の大慈悲と両眼の失明という重病から回復された石川照温師の徳にあやかり、眼病平癒・視力回復を祈願いたします。

絵馬に名前を書き開山堂にお掛け下さい。
 
開山照温上人

不動明王二童子像
倶利伽羅剣 大五鈷杵
鐘楼 納経所