小 江 戸 川 越 七 福 神

三番寺 星野山 喜多院 無量寿寺 大黒天

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平成廿二年一月七日
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星野山 喜多院 無量寿寺


御本尊 阿弥陀如来



天台宗
御朱印 大黒天



小江戸川越七福神 色紙


秋の七草:萩


水琴窟

水琴窟は江戸時代初期の茶人、
小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。
甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、
甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。


喜多院の縁起
喜多院は、天長七年(830)慈覚大師により無量寿寺として創建しました。
永仁四年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、北院・中院・南院となる各房が建てられました。
慶長十七年(1612)国師天海僧正が住職となり、寺領48,000坪、500石の御朱印を拝領した御朱印寺です。
寛永十五年(1638)川越の大火後の再建では、徳川家光の命により江戸城紅葉山から客殿、書院を移築、現存しており、 「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があります。
現在、数多くの文化財を有している他、初大師・だるま市等の行事があり、川越大師として親しまれています。
関東三十六不動28番不動、小江戸川越七福神の大黒天です。

喜多院所蔵の文化財
  • 客殿(国指定重要文化財)
  • 書院(国指定重要文化財)
  • 庫裡(国指定重要文化財)
  • 慈眼堂(国指定重要文化財)
  • 山門(国指定重要文化財)
  • 鐘楼門附銅鐘(国指定重要文化財)
  • 紙本着色職人尽絵(国指定重要文化財)
  • 宋版一切経絵(国指定重要文化財)
  • 暦応の古碑(県指定史跡)
  • 慈恵堂(県指定有形文化財)
  • 多宝塔(県指定有形文化財)
  • 番所(県指定有形要文化財)
  • 木造天海僧正坐像(県指定有形文化財)
  • 延文の板碑(市指定考古資料)
  • 天海版一切経(市指定文化財)
  • 松平大和守家廟所(市指定史跡)

慈眼堂
天海僧正は寛永二十年(1643)十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の謚号をおくられた。
そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。
一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。
宝形造は、四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。                    (川越市教育委員会掲示より)


鐘楼門附銅鐘
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当寺鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。
また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。
下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。
上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、
組物に出三斗と平三斗を組みます。
中備はありません。
正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。
上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。
寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。
                               (川越市教育委員会掲示より)


暦応の古碑
暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に52名にのぼる喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。
喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。
梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことがわかる。
                               (川越市教育委員会掲示より)


延文の板碑
暦応の板碑とならんで立っている延文三年のこの板碑は、高さ276cm、最大幅69.4cm、暑さ9cmで川越市最大の板碑である。
暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに、僧1、法師2、沙弥32、尼21、聖霊4、の合計60名が刻まれており「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。
聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。
暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑は、その殆んどが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師となって、在俗の人々が結衆したことがわかる板碑である。
                              (川越市教育委員会掲示より)

慈覚大師が天長七年(830)に創建した天台宗の名刹で、正式には星野山無量寿寺喜多院という。
江戸時代初期、名僧天海大僧正が住職をつとめた寺として、また江戸城から移築された三代将軍徳川家光・春日局ゆかりの建物をはじめとする、多くの文化財を所蔵している喜多院の名は川越をというより、埼玉県を代表する寺院として全国的にも有名である。
徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第二十七世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、三代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築された。
江戸城ゆかりの建造物に加え、山門・鐘楼門・慈眼堂などが重要文化財に指定されており、また隣接して、駿府で没した徳川家康公の遺骸を日光山へ運ぶ途中で法要が行われたことから建設された日本三大東照宮の一つである仙波東照宮もあり、江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりの深い寺である。
また、日本三大羅漢の一つに数えられるこちらの五百羅漢は、人間の喜怒哀楽をよくとらえた様々な表情の石仏群でおよそ540体が境内に並び、観光客の人気を集めている。
いずれも見学可能で、正月はだるま市・二月は節分会・春は桜まつりなどの催し物が開催され、四季折々の寺の風景も楽しめる。
                           (小江戸川越観光協会より)

                                                                            
梵鐘のある山門に着きました。 日蓮上人傳法灌頂之寺
日蓮上人傳法灌頂之寺 天台宗別格本山  元関東八箇檀林 天台宗 星野山 中院

中  院

所在地 川越市小仙波町五丁目

中院は、かつて星野山無量寿寺仏地院と称し、天長七
年(830)に、慈覚大師によって創立された。当初の
中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永
十年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
境内には、川越城主秋元侯の家老であった大陽寺一族
の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。
太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基
の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著わした大陽寺盛
胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。
また、加藤みきは、文久三年(1863)に川越松平
藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母
に伴われて上京し、以後大正十二年に再び川越に戻り、昭
和十年五月に七十三歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不
染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。

昭和五十七年三月

埼 玉 県

ここ中院は川越茶・狭山茶の発祥の地としても有名。
開山の際、円仁が京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりで、
30年ほど前までは境内にも茶畑があったという。
境内にはその旨を記した石碑が建てられている。  (小江戸川越観光協会より)


無量壽園 天台宗 星野山 中院 国指定重要文化財 仙波東照宮入口

重要文化財・建造物
仙 波 東 照 宮

徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した
元和三年(1617)三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が
寛永十年(1633)一月この地に創建した。その後寛永十五年(1638)正月の
川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七
年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、
日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(隋
身門)・鳥居・拝弊殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前に
は歴代城主奉献の石灯籠がある。なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額
と弊殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。

埼玉県教育委員会
川越市教育委員会

重要文化財・建造物
寛永十五年

東照宮隋身門・石鳥居


境内入口にある隋身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺である。
八脚門とは三間×二間の門で、
門柱四本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。
以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。
記録によるとこの勅額は寛永十年(1633)十二月二十四日とあるから
東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。
石鳥居は寛永十五年(1638)九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、
柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日
堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。

           川越市教育委員会
 

急な石階段が現れました ここが東照宮ですね。 三つ葉葵の御紋
扉は閉ざされています。 石灯籠群 武州 仙波 東照宮  尊前
東照宮   延享二乙丑年四月十七日 東照宮 享保十九年甲寅年十一月三日 石灯籠群
             
             
石燈籠  二十六基
      
燈籠数     献備年月日            献備者(川越城主)   高さ   位置番号
      二基   明暦二丙申年七月四日       伊豆守松平信綱   七尺八寸     @
      二基   寛文十一年辛亥八月四日     甲斐守松平輝綱   七尺八寸     A
      二基   貞享四丁卯年十一月十六日    伊豆守松平信輝   八尺        B
      二基   元禄十五年壬午年二月十六日  美濃守柳沢吉保   八尺七寸     C
      二基   享保六辛丑二月十七日       伊賀守秋元喬房   八尺        D
      二基   享保十九甲寅年十一月三日    伊賀守秋元喬房   八尺        E
      二基   延享二乙丑年四月十七日     摂津守秋元凉朝   八尺        F
      二基   寛永二己巳年六月五日       但馬守秋元凉朝   八尺        G
      二基   宝暦十四甲申年五月九日     但馬守秋元凉朝   八尺        H
      二基   安永八己亥年正月二十二日    大和守松平直恒   八尺七寸     I
      二基   寛政五癸丑年九月           大和守松平直恒    八尺七寸     J
      二基   文化六己巳年十月           大和守松平直恒    八尺七寸     K     
      二基   弘化四丁未年十一月         大和守松平斉典    九尺        L

東照宮
享保六辛丑二月十七日 従五位
従五位下伊賀守秋元 東照宮

重要文化財・建造物
東照宮拝殿・弊殿

拝殿は桁行三間(五・三六m)、梁間(三・六四m)で、単層入母屋造、
正面は向拝一間(一・八二m)あって銅板本葺である。弊殿は桁行二間、
梁間一間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく銅板本葺で
ある。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現
の勅額が懸けてある。記録によると寛永十年(一六三三)十二月二十四
日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川
越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝え
ているが、松平大和守の弘化四年(一八四七)にも修復が行われたという。

平成三年三月
埼玉県教育委員会
川越市教育委員会


鐘楼門附
銅鐘楼
(国指定重要文化財・建造物)
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時小楼門
は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位
置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧
達の日々の勤行を導いたと考えられます。
鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が
付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面
は堅板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱
を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平
三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし
両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を
花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げ花鳥の彫物を飾ります。上
層には、元禄十五年(一七0二)の刻銘がある椎名伊予藤原重休
作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(一六三八)の大火に焼け
残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘に
ある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。

昭和二十一年十一月二十九日指定  川越市教育委員会

東照宮の屋根 東照宮鐘楼の撞木 東照宮の鬼瓦
東照宮上層部の彫刻 東照宮上層部 東照宮上層部の彫刻
東照宮上層部の彫刻 東照宮上層部 東照宮から喜多院に入ります。
境内にはたくさんの露店が並んでいます。 正面に本堂 本堂
扁額「潮音殿」 多宝塔
小江戸川越七福神 第三番寺 大黒天 多宝塔
拝観お休み この時は中に入れませんでした。 歴史博物館とは後で知りました。


江戸時代、徳川家光により江戸城紅葉山の
客殿(家光誕生の間/国指定重要文化財)
書院(春日の局化粧の間/国指定重要文化財)・庫裏は、喜多院の境内に移築されました。
客殿と書院に繋がる庫裏(国指定重要文化財)が入り口となっています。
館内は原則撮影禁止です。
現在は川越市や喜多院の歴史を知ることができる、貴重な歴史博物館として機能しています。


五百羅漢の入り口は売店の脇

ここの羅漢は釈迦の死後、
その教えを経典にまとめるための初めての集会(結集)に集まった五百人の弟子の様子を表したものです。

五百羅漢は山門から境内に入った右側の石塀の中にあります。
休憩所となりの入口から入場券を渡し一歩中に入ると、
見事な石仏群が目に飛び込んできます。
制作は川越・北田島の僧・志誠の発願で、
天明二年(1782)から文政八年(1825)の50年の歳月をかけて538体の羅漢像を完成させました。
天明年間は五百羅漢の信仰が盛んだった時代、五百羅漢造りに着手した志誠でしたが、
40体程の羅漢を造ったところで病に冒され、66歳でこの世を去っています。
志城の没後、その意志を喜多院の三学僧(慶厳、澄音、祐賢)が継ぎ、
浄財や協力を求めて奔走したそうです。
どれ一つとして同じ姿はなく、内緒話をしたり、笑っていたり、泣いていたり、怒っていたり、
七輪で湯を沸かす羅漢像もあり、
いつまで見ていても飽きることのないくらい、変化に富んでいるのが特徴です。
しかし、大半の羅漢像には、首の切断痕や腕が失われるなど、
破壊された傷跡が残っています。
現在は修復されていますが、
明治初めに起きた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって、
全国各地でこのような仏教施設(寺院・仏像など)の破壊が行われたことによる名残なのです。



川越の人気観光スポットである喜多院にある五百羅漢。
日本三大羅漢の一つにあげられています。



538体すべて違う顔・表情!


左の像はお酒を飲んでいるのでしょうか?


戌(犬)と羅漢さま。楽しそうな表情です。


何故か照れる羅漢。


「この酒美味いなー」と言っているのでしょうか。

これは、お酌をしているのではありません。
   燈明の油をつぎ足しているのです。


笑顔、怒り顔、おしゃべり、居眠り……。
いろいろな表情や姿勢で、仏具や日用品を持っていたり、
動物と一緒だったりと、人間味あふれる羅漢さまたちです。
                (川越大師喜多院 五百羅漢より)

11時26分 川越大師喜多院を発ちました。