浅 草 名 所 七 福 神 巡 り

吉原神社 弁財天

平成廿二年一月六日

東京大手町  最高気温 10.4℃ 最低気温 3.7℃ 晴れ後快晴

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色紙



七福神信仰

人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。
 「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。
家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅七福即生」とあります。
 つまり、教え導くことを篤く信じ行えば世の中の七つの大難(太陽、星の異変火災、水害、風害、旱害、盗難)は
たちどころに消滅し、七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、
あなた自身の「心」の在り様といえます。
 といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、
その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。



御朱印



市杵嶋姫命(弁財天)は、遊郭の土地造成でできた弁天池に祀られ、
関東大震災の後に遊郭の守護神に加えられました。
そのお顔は童女のような清純さと優しく美しい面立ちの座像で、
女性の愛と苦しみを清めて包み込む救いのお姿です。

吉原神社でお祀りしているのは、弁財天です。

吉原神社のご祭神は、
稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、
開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。
 
元和三年(1617)、徳川幕府の命によって、
江戸市中各地に散在していた遊女屋は日本橋葦町あたりに廓として統合されました。
これが「江戸元吉原」です。
 その後、明暦三年(1655)の大火のあと千束村に移転を命ぜられ、
そこに新しく造られたのが「新吉原」ということになります。
 新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、
それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られておりました。

 この五社が明治五年に合祀されることになり「吉原神社」として創建されました。
吉原神社の歴史は新吉原遊郭のそれと折り重なり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されてきました。
 五社のなかでも 九朗助稲荷社の創建は古く、和同四年(711)、
白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請されたのがはじまりとされています。
そして廓の千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請されました。

 廓内の神のなかでも伝説や逸話に富み、遊女、遊客とからみ、
開運、縁結び、商売繁昌のご利益のある神として華やかな信仰を集め、
その様は江戸の小噺集などにもしばしば登場しています。


吉原の入口である大門からみた廓の賑わいです。
中央通りの仲ノ町には、季節ごとの飾り付けが行われ、春には桜が植えられました。
(『あづまの花 江戸繪部類』国立国会図書館蔵)




『今戸箕輪浅草絵図』(嘉永六年)に見る新吉原周辺

吉原遊郭は江戸唯一の幕府公認の遊郭です。
 創立は元和三年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことよりはじまります。
この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。
しかし次第に吉原が江戸の中心地となったため、明暦三年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。
以後、日本橋葺屋町辺にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。
 その後、吉原には連日多くの人々が詰めかけ、
魚河岸、芝居町と並んで一日に千両の金が落ちるほどの繁華街として賑わいました。
このように賑わった背景の一つに、
吉原が身分や階層を超えた開放的な社交場という役割を担っていたことが挙げられます。
吉原は大名・旗本や豪商等の交流・接待の場として使われ、
また文化人による句会や絵暦交換会などの文化交流も頻繁に行われました。
したがって遊女の中にも和歌、俳諧、茶の湯といった高い教養を身に付けた者が多く、
また気位も高かったため、遊客にもそれなりの心構えと教養が必要でした。
 また吉原は歌舞伎・文学・浮世絵といった江戸庶民文化の題材としても頻繁に取り上げられました。
その担い手である文人・絵師・版元といった文化人は常に吉原に集って交流を持ち、
多くの作品を手がけていきました。

したがって、吉原は江戸庶民文化の発信の場でもありました。
例えば、新吉原入口に店を構える版元の蔦屋重三郎は
歌麿や写楽といった浮世絵師や多くの文人に出版の機会を与えるとともに
彼らと集会を催して文化人のネットワークを築いています。

 さらに、吉原では四季折々の年中行事とそれに伴う様々な演出が施されたことも特徴で、
歩いて眺めるだけでも楽しめる江戸随一の観光地でもありました。
したがって、廓内にはこれら非日常的空間を見物することだけを目的とした
「ひやかし(素見/すけん)」と称される人々も多く、
吉原に訪れる人々の約七割は見物目当ての「素見(ひやかし)」だったようです。

 こうして吉原には江戸文化を代表する独自の文化が発達しましたが、
これは吉原が単なる女性と遊ぶ場というだけでなく、
同時に江戸の一大社交場としての役割も担っていたからだろうと考えられます。

 その後、吉原は明治以降も遊郭としての営業を続けましたが、
時代の波に従って次第に江戸期とは性質を異にして行き、
昭和33年の売春防止法の適用によってその長い歴史に終止符を打ちました。

 それから60年近く経過した現在、
かつての吉原文化を掘り起こして活気ある街をつくろうとする取組が町会を中心に展開され注目を浴びています。
                                                        (吉原神社HPより)


巡礼・お遍路へ 七福神巡りへ 浅草名所七福神巡り


東浅草二丁目 日の出会商店街 日本堤1-1 吉原大門
浅草名所七福神巡り  浅草警察 吉原交番 吉原交番前
夜になるとネオンで華やかでしょうね。 黒い壁に覆われていますが、
何のお店でしょうか。
12時39分 吉原神社に着きました。
吉原神社 鳥居 弁財天 吉原神社

御祭神

玄徳稲荷大神、開運稲荷大神、九郎助稲荷大神
榎本稲荷大神
明石稲荷大神、吉原弁財天

明治五年に新吉原遊廓の四隅に祀られていた四稲荷社と、
地主神である玄徳稲荷社を合祀して、吉原神社を創建した。
さらに昭和十年吉原弁財天を合祀した。
 当社は新吉原遊廓の鎮守の社であり、遊郭の盛衰とともに歴史を重ね、
初午・祭礼の賑い、ことに花魁の参拝は古書にも記されている。
現在も幸せを祈る女性への御利益はよくしられている。


弁財天の御由緒記

当吉原神社の弁財天は江戸時代の始め
此の吉原の地が未だ葦や葭の生い茂る湿地帯を多く残す田地であった頃、
近くの沼のほとりに弁天祠として祀られていたのです。
元和四年(1618)傾城町設置に共い沼も池となり、
弁天祠は池の中島に弁天社として安置されたのです。

社伝には当時の池を弁天池と称し一の橋が渡され「中島に弁天を移す」と記され、
御祭神に関しても「新たに安芸の厳島より大弁才天女を勧請す市杵嶋姫命是なり」と著されています。
やがて吉原䦎郭繁昌に共なって弁財天はいつしか童女弁天と近隣の人達に呼ばれ、
特に遊女や芸者達が持つところの愛別離苦怨憎会苦の苦しみは弁財天が救って下さるものと
強く信じられ信仰されたと云う。
やがて文化・文政の時代を迎えると共に七福神の信仰も盛んになり、
当浅草の地では浅草寺の銭瓶弁天(老女弁天)と吉原弁財天(童女弁天)は
多くの人々に知られるようになったのです。

当神社の弁財天は昭和九年弁天社を当神社に分祀し御祭神市杵嶋姫命をお迎えしたもので、
一尺二寸の立像で左手に琵琶を縦に持ち天衣をつけた御尊像です。
このお姿は市杵嶋姫命と大弁才天女の御姿を一緒に顕わしたもので、
仏教の天部の神とされた弁才天については細い儀軌は無かったようで
時代の特色と信仰形式がその根底にあったと考えられる。
即ち当社の弁財天は仏教諸経典に無い特長を持ち、
神社の御祭神市杵嶋姫命として崇められ今日に至っているのです。

当御神像は厳島と同じで市杵嶋姫命は陸上・航海安全です。
弁財天は弁説を補う徳があり、弁説は智惠・学問に通じ又琵琶を美しく奏でる徳を持ち、
音楽・技芸に通じ更に財に富む徳があり福徳授与して下さると云われています。
弁財天について知りたい方は申し出て下さい。


福笹 福笹と社紋 弁財天
吉原 今昔図 明治27年時代 大正12年 関東大震災時
昭和20年 東京大空襲時 昭和33年 公娼廃止時 吉原の火事
浅草名所七福神の内
辨 財 天
           吉原神社
提灯 吉原神社 吉原商店会


(以下は江戸御府内千社参詣より) 
吉原大門交差点

吉原遊廓の入り口。
読みは「よしわらおおもん」。
同じ大門でも、”ダイモン”は増上寺の山門とその周辺地域を指す。
 
一本の柳は「見返り柳」と呼ばれ、遊廓を離れる客が名残惜しんで振り返ったという。
とはいえ柳は川沿い、街道沿い、墓所、処刑場など、地域の境目に植えられることが多く、
遊廓前に柳が立つのも、銀座に柳を植えるのも、歓楽街(極楽)と世間(娑婆)を別しているのだろう。
よく柳の下に幽霊が出るとされるのも、幽霊があの世とこの世の境目を浮遊する存在だから。
 

現在の地図に、天和四年(1683)の吉原遊廓の図を基に再現してみた。
京町(きょうまち)一・二丁目、揚屋町(あげやちょう)、角町(すみちょう)、
江戸町(えどちょう)一・二丁目、伏見町(ふしみちょう)の五町からなる。
 
吉原遊廓は、元は慶長十七年(1612)に葭原(よしわら・あしはらとも/現:日本橋人形町)に造られ、
明暦三年(1657)の大火後に浅草裏に移って来た。
前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。
元吉原に遊廓が形成される以前、
もっとも徳川氏が入国する以前の片田舎な江戸には遊女街は無く、
町の所々に遊女を置いた店が散見するのみであった。



新吉原のさらに詳細な図を、イラストレーターで再現。
(変体仮名、崩し字、それと文字の擦ればかりなので、読めないところは空欄のまま。)
一般的に妓楼の店名は”〇〇楼”というイメージがあるが、
よく見ると江戸初期の妓楼はすべて「〇〇屋」という屋号ばかり。


元吉原

日本橋から少し離れた葭原に遊女街を造り、
京町一丁目に麹町の遊女屋、同二丁目に上方から下って来た遊女を、
角町には京橋角町(現:京橋三丁目)の遊女屋、江戸町一丁目に道三河岸(現:大手町)の遊女屋、
同二丁目に鎌倉河岸(内神田二丁目)の遊女屋を置いて、外郭を堀で囲って吉原と名付けた。

遊女街をつくらせて囲ったのは、吉原名主に上納金や税収、女の身辺管理などを一括で管理させることと、
それ以外の私娼を許さないことで治安維持につながること、
市場独占の公許を得られる名主側との利害が一致したためとも言われる。

規模の大きさの違いはあれど、街の形は新吉原のそれとほとんど同じ。
また吉原の名主の出身は、
東海道吉原宿(富士市)の遊女屋とも、駿府城下(静岡市)の二丁町遊郭とも言われる。
ちなみに二丁町遊郭は、もと7ヶ町あったが、
江戸吉原に5ヶ町移ったので二丁町遊郭と呼ばれるようになった。

新吉原

幕府設立後、全国の大名が江戸城下に藩邸を構え、開拓・開削といった普請が続き、
また戦国時代の終焉とともに戦乱で溢れかえった浪人が仕官先や職を求めて人口が増大しつつあった。
そんな拡大を続ける江戸にとって、城下にほど近いところに遊廓があることを次第に望まず、
明暦の大火もあって、中心地から少し外れた浅草裏(山谷)への移転が決まった。

街の構成は、元吉原とほぼそのままに形成されたが、
後に江戸町二丁目の端に伏見町が造られた。
取り締まりに依って検挙され吉原に組み込まれることになった私娼窟に、
伏見や堺の出身者が多くかったことからという。

お歯黒どぶ

遊郭と世間を隔絶する人工の堀。
同名の墨田区の玉ノ井のお歯黒どぶ名称由来によれば、
ゴミや生活排水、動物の死骸などで真っ黒に汚れていたことから。
遊女が逃げ出さないためとも言われるが、
堀幅は創業時の9mから数年で2mと狭められ、泳いで逃げようと思えばできなくもない。
また、遊廓を”極楽”と見立て、
ドブの向こうの一般世間を忍耐や苦行の”娑婆”と仏教思想になぞらえて例えたが、
拘束されている遊女からみれば、娑婆こそが自由の世界というように捉えられるようになり、
年季明けの遊女同様に、
拘束され隔絶されていた受刑者が刑期を終えることを”娑婆に出る”というようになった。


天麩羅土手の伊勢屋と桜鍋中江


吉原大門交差点そばにある、老舗の天ぷら「伊勢屋」と、その左隣は桜鍋の「なか江」。
伊勢屋は明治22年(1889)、なか江は明治38年(1905)創業の正に老舗。
新吉原遊廓が昭和32年(1957)に施行された売春防止法によって無くなるので、
50年から70年ほど、在りし日の吉原と共にあったのか。
 


伊勢屋の天丼は、明治の創業当時は5銭(店の掲示より、ただしうろ覚え)、
現在は天丼ロ(イロハのロ)が2000円なので、
タネの違いは有れ、日本の物価は130年ほどで4万倍に高騰しているのだと、
ふだん考えもしないことを知ることが出来る。
130年分の歴史がちゃんと残っている老舗は貴重。
浅草を筆頭に東京のてんぷらの名店と言われるのは、どこもタレでびしょびしょな上、
古い油で揚げたような匂いが鼻をつくが、
ここのはタネがうまいのはもちろん、タレがかかっていても衣がサクサク、ごはんもうまい。
 
そして写真左側は、吉原神社の目の前にある福カフェにて。