浅 草 名 所 七 福 神 巡 り



福 禄 寿



平成廿二年一月六日

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色紙



七福神信仰

 人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。
 「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。
家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅七福即生」とあります。
 つまり、教え導くことを篤く信じ行えば世の中の七つの大難(太陽、星の異変火災、水害、風害、旱害、盗難)は
たちどころに消滅し、七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、
あなた自身の「心」の在り様といえます。
 といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、
その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。



御朱印


御祭神
應神天皇(おうじんてんのう)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
福禄寿(ふくろくじゅ)…七福神の内の一神

福禄寿…昭和十二年一月から同年十六年頃まで七福神巡拝が行われておりましたが、
戦時下となり一時中止され、昭和五十二年一月より復活されました。
浅草は江戸文化発祥の地といわれ、七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。
福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、
福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として、
古くから人びとの尊信を集めています。
福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、
福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との
三つの福徳を授ける福の神として人々の尊信を集めています。


御由緒

後冷泉天皇康平六年(1063)、京都の石清水八幡を勧請し、今戸八幡を創建。
昭和十二年七月に、白山神社を合祀、今戸神社と改称。
應神天皇の御神徳は武運長久と慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としております。
後冷泉天皇康平六年(1063)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、
勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、
篤く祈願し、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが
今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
その後、白河天皇永保元(1081)、謀反をおこした清原武衡・家衡討伐のため、
源義家が今之津を通過するあたり戦勝を祈願しました。
その甲斐あって勝ち、いくさをおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されること、しばしばでした。
江戸時代、三大将軍徳川家光は、今戸八幡の再建ののために官材を下され、
舟越伊豫守と八木但馬守に命じて、寛永十三年(1636)に再建が成りました。
大正十二年九月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、間もなく復興したものの、
つぎは昭和二十年三月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。
こうした、被災=再建の歴史をくりかえしながら、
同四十六年十一月、現在の荘厳な社殿が、氏子崇敬者の浄財によって造営されたのです。
その間、昭和十二年七月に今戸の隣地に鎮座されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。
御祭神は應神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、そして七福神のうちの福禄寿です。
應神天皇とその母神功皇后は、大陸文化を輸入して日本の文化興隆を図られたことは周知のとおりで、
両神の関係は母子の情愛の信仰が古代の日本にもあったことの證左です。
ですから、八幡さまの信仰は、一般には武運長久の霊験と思われていますが、
一方で、母が子を抱きかかえ、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているのです。
伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて、日本の国土を創成し、諸神を産み、
山海や草木を生したといわれる男女の神で、古くから産霊の神として仰がれています。
”古事記”や”日本書紀”を見るまでもなく、縁を結び、生産の基盤を固める神として崇められてきました。


 福禄寿をお祀りしている今戸神社は、
後冷泉天皇康平六年(1063)時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、
勅命によって奥州の夷賊阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の討伐の折、
篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに
京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
 
その後、白河天皇永保元年(1081)謀反を起こした清原武衡・家衡討伐のため、
源義家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。
その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。
戦乱兵火に遭うごとに再建されることしばしばでした。
江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、
船越伊豫守と八木但馬守に命じて寛永十三年(1636)に再建がなりました。
大正十二年九月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、
まもなく復興したものの昭和二十年三月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。

こうした被災→再建の歴史をくり返しながら、同四十六年十一月、
現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の浄財によって造営されました。
その間、昭和十二年七月に今戸の隣地に鎮守されていた白山神社と合祀、
社名が今戸神社と改称されました。

雁神天皇とその母神功皇后は大陸文化を輸入して日本の文化興隆を図られたことでは周知のとおりで、
両神の関係は母子の情愛の信仰が古代の日本にあったことのあらわれです。
ですから八幡様の信仰は、一般には家運長久の霊験と思われていますが、
一方で母がわが子を抱きかかえ、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているのです。

伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて日本の国土を創成し、
諸神を生み、山海や草木を生したといわれる男女の神で、
古くから産霊(むすび)の神として仰がれています。
「古事記」や「日本書紀」を見るまでもなく、縁を結び、生産の基盤を固める神として崇められています。


江戸高名会亭尽 今戸橋之図 広重


巡礼・お遍路へ 七福神巡り 浅草名所七福神巡り


いまどはし 浅草七丁目11 今戸神社 東京下町八社参り 縁結び
浅草名所
七福神  福禄寿
幟   今 戸 神 社 扁額 「今戸神社」 今戸神社   ↑
招き猫発祥の地
沖 田 総 司
終 焉 の 地
神輿庫 境内
本殿には大きな招き猫もいます。 「福禄寿」 扁額「今戸神社」
本殿 社務所には色々なお守りなどが並んでいます。
しかし沢山の種類がありますね。 次の七福神に向かいます。

当神社は、幕末の著名人である沖田総司の終焉の地である、
と主張しており、神社は境内にその旨を記した碑を建立している。
これは、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、
当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきている。

また、新撰組隊士の永倉新八が沖田は松本宅で死亡と書き残している。
ただし当時永倉は江戸に居らず推測または伝聞で記したものである。

現在の有力な史料においては、
沖田は今戸八幡神社に間借りしていた松本の手引きにより、
千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋に匿われており、
同地で死亡した、とするのが定説である。 (Wikipediaより)

残念なことに場所が分かりませんでしたので、お参りできませんでした。