浅 草 名 所 七 福 神 巡 り

浅草神社 恵比須

平成廿二年一月六日

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色紙



七福神信仰


 
人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。
 「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。
家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅七福即生」とあります。
 つまり、教え導くことを篤く信じ行えば世の中の七つの大難(太陽、星の異変火災、水害、風害、旱害、盗難)は
たちどころに消滅し、七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、
あなた自身の「心」の在り様といえます。
 といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、
その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。




御朱印


浅草神社では恵比須神をお祀りしています。
 推古天皇36(628)年3月18日、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の投網に観音ご尊像が現出なされました。
郷長の土師真中知は、これを拝して篤く敬い、自宅に奉安し朝夕に礼拝、その生涯を安楽に終えました。
  真中知の歿後、嫡子が観音様から夢告を受け、
それ以来、祖先神、郷土神を祀る「三社権現社」として篤く祀られることになったと伝えられています。
明治の神仏分離令により「浅草神社」と改称しました。
 その創建時代には不明なところもあるようですが、鎌倉初期が通説となっています。

 浅草神社では江戸三大祭の一つ「三社祭」が、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる江戸っ子の心意気を示して、
神と人が一体となって行われることは周知の事実です。
 この三社祭の歴史は古く、一説には正和元(1312)年の船祭に始まるともいわれていますが、
江戸期に入って三代将軍徳川家光の社殿ならびに神輿の新たな造営を機に江戸市中の一大イベントとなりました。



浅草神社について

由緒

推古天皇の御代三十六年(六二八)三月十八日の春麗らかなる朝、
漁師の檜前浜成・武成の兄弟が、浅草浦(現隅田川)で漁労に精を出していたところ、
その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけでした。
しかしそれが観音像とは知らずに、幾度か海中に投げ入れ何度場所を変えても同じ事の繰り返しです。
流石に兄弟は不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し槐の木の切株に安置しました。
そして当時郷土の文化人であった土師真中知にその日の出来事を語り一見を請うたところ、
同氏は「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世御利益仏たり、自らも帰依の念深き仏体である」と告げられました。

兄弟はその功徳を知りなんとなく信心をもようされ、深く観音を念じ名号を唱え、
「吾ら漁師なれば漁労無くしてはその日の生活も困る者故、明日は宜しく大量得さしめ給へ」と厚く祈念して、
翌十九日に再び浦々に網を打ったところ、船中は願いの如く溢れんばかりの魚に満ち足りました。

土師氏は間もなく剃髪して沙門(僧侶)となり自宅を新たに寺と構え、
先の観音像を奉安し供養護持の傍らに郷民の教化に生涯を捧げられました。

これが『浅草寺縁起』に見られる観音御示現に伴う浅草寺の起源であり、
その御利益を求めて時の将軍や武家をはじめ庶民に至るまで多くの参詣者を得て、
寒村であった郷土は興隆・発展の一途を辿ります。

後世となり土師氏の子孫が聖観世音菩薩の夢告を蒙り、
「汝等の親は我を海中より薫護せり。
故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の功績は称すべきなり。
即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守し、
名付けて三社権現と称し齋祀らば、その子孫・土地共に永劫に繁栄せしむべし。」との託宣があり、
前述三氏の末孫が崇祖の余り三人を郷土神として祀る三社権現社が茲に創建されました。

正確な創建年代は不明ですが、その起源と経緯や各時代の縁起等に記される伝承を鑑みて、
仏教普及の一つの方便である「仏が本であり、神は仏が権りに姿を現じた」
とする権現思想が流行り始めた平安末期から鎌倉初期以降と推察されます。

奇しくも明治政府より発せられた神仏分離令により、明治元年に社名を三社明神社と改めて、
同五年には社格が郷社に列せられ、翌六年に浅草郷の総鎮守として現在の浅草神社に定められました。
今でも氏子の方々にはその名残から「三社様」と親しまれています。


御祭神

檜前浜成命
(ひのくまのはまなりのみこと)

土師真中知命
(はじのまなかちのみこと)

檜前武成命
(ひのくまのたけなりのみこと)



社殿について


社殿とは

神社の建造物を総称して社殿といいます。
この中には御祭神やご神体が祀られている本殿を始め、
拝殿(はいでん、拝礼をする建物)、幣殿(へいでん、神様 へお供え物をする建物)、
御饌殿(みけでん、神様の食事の準備をする建物)、神楽殿・舞殿(舞や神楽を奉納する建物)、
祓殿(はらえでん、心身を清浄にす るためのお祓いを行う建物)などが含まれます。
もちろん、これらの建造物がすべて神社にあるというわけではなく、神社の規模によって一様ではありません。



浅草神社の社殿

浅草神社の社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなり、
幣殿と拝殿が渡り廊下でつながれているいわゆる権現造りと呼ばれる建築様式で、
日光の東照宮などがこれにあたります。
その他、境内内には神楽殿、神輿庫などがあります。

慶安2年
1649年


第三代徳川将軍家光公により、建立寄進された社殿は 度重なる火災や戦争、関東大震災などの被害を免れ、350年たった現在も当時の面影をそのままに残しています。
昭和26年
1951年


国の重要文化財に指定され、国家の保護を受けています。
平成8年
1996年


建物全体の彩色とうるしの劣化が著しく 補修のため、工事費総額3億5千万円をかけて塗り直しを行いました。
昭和の修営から実に33年を経てよみがえった色彩の鮮やかさには、眼を見張るものがあります。




神社の霊獣


神社には数多くの霊獣が描かれています。
ほとんどが架空の動物ですが、いずれも平和の象徴であったり人々の幸福を願う存在です。


             鳳凰(ほうおう)
最も有名な霊獣の一つで、中国の古代思想における四神の一つです。
梧桐に宿り、竹の実を食し、醴泉レイセン(甘い水の泉)の水を飲んで、
聖天子出生の瑞兆として出現すると伝えられています。
鳳は雄、凰は雌と分けられています。

             麒麟(きりん)
麒麟は中国の古代思想における四神の一つで、某ビールのラベルにも描かれていることで有名です。
その姿は体は鹿、頭は狼、尾は牛、足は馬、そして角を持つ。
虫も踏まず草を折ることもない仁獣で、優れた王(為政者)が出現した
ときに現れると言われます。
               飛龍(ひりゅう)
体が魚で翼をもつ動物。
胴が短く尾びれがあります。
水を司る霊獣です。
その見慣れぬ体型から一番質問を受けることが多い霊獣です。
               右大臣/左大臣
霊獣ではありませんが、ひな祭りでおなじみの右大臣、左大臣です。
随身(ずいしん)と呼ばれ、狛犬などと同じ役割を持っています。
手に持っている弓矢や剣には魔よけの意味があります。





神明鳥居


神社において神域と人間が住む俗界の境界を表し、境内への入口を示すものです。

当社の鳥居は「神明鳥居」と呼ばれる形で、明治18年9月に建立されたものです。

その傍らの社号標は、神宮大宮佐佐木行忠候に揮毫されました。


狛犬 社殿(本殿・幣殿・拝殿) 狛犬
纏 四番 扁額「淺草神社」 飛龍(ひりゅう)
豊原国周の浮世絵模写 浅草名所七福神を御巡拝の皆様へ 恵比須神像



三 社 祭

町内神輿

浅草馬一 浅草町一 寿二

三社祭とは

浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三金・土・日曜日に行われ、
江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やかな神輿渡御を主として、
三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。

江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、
東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。

初日は、お囃子屋台をはじめ鳶頭木遣りや浅草の各舞、
また芸妓連の手古舞や組踊り等で編成された「大行列」が浅草の町に祭礼の始まりを告げ、
東京都無形文化財指定の「神事びんざさら舞」も奉納されます。

二日目には、「例大祭式典」が斎行され、
その後に「町内神輿連合渡御」によって浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約百基が神社境内に参集し、
一基ずつお祓いを受けて各町会を渡御します。

最終日は、宮神輿三基「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、
早朝には神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、
日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、
日没後に神社境内へ戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終わります。

期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、
神社では各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。


神事びんざさら舞



浅草神社の神事として三社祭で踊られる田楽舞であり、
現在は東京都無形民俗文化財に指定されています。
田植え行事が芸能化されたものであり、紅白の紙を散らし籾撒きに見立て、
楽器である編木(ささら)で音を奏でる事により五穀豊穣や悪霊退散の願いが込められると共に、
そこに獅子舞が合わされて子孫長久や悪病祓いも祈願されます。


神輿について

神輿は祭礼にあたり、神幸祭に際して、ご神体あるいは御霊代がお乗りになる輿の事をいいます。

神幸とは、ご神体が御旅所(神幸の中継地、および目的地となるところ)に渡御することをいいます。
このとき、氏子達が担いで各地区を練り歩きますが、こうすることで神様に各地区をご覧頂くのです。

神幸の途中、神輿を上下左右に振り動かしたり、わざと荒々しく揺さぶることで、
神輿に坐す神様の「魂振り(たまふり)」を行い、これにより神様の霊威を高め、
豊作や豊漁、疫病の退散がなると信仰されているのです。

浅草神社には三基のお神輿があり、祭礼の際は、
一之宮には土師真中知命、二之宮には桧前浜成命、三之宮には桧前竹成命の御神霊をそれぞれお移しし、
町中を渡御します。


宮神輿

戦前は家光公より寄進された神輿三基とその保存の為に新調した三基、
更には氏子町会より寄贈された一基(四之宮)と合わせて七基の神輿がありましたが、
先の大空襲により惜しくも全て焼失してしまいました。

現在の神輿は、一之宮・二之宮が昭和二十五年に、三之宮が昭和二十八年に氏子により奉納されたもので、
胴が細く屋根四隅の蕨手が大きい近代的な造りとなっており、
一之宮の頭には鳳凰が、他二基には擬宝珠が飾られています。



当時、神輿庫には新旧七基のお神輿があった。
大正12年5月撮影


四之宮

元々は町神輿として田町で作られたお神輿でした。
しかしあまりに重かったため、町会で担ぐ人がいなくなり、浅草神社へ奉納されました。
祭礼の際は、東照宮の御神霊をお移しし、四之宮として担がれるようになりました。

重いといっても他の三基の宮神輿に比べると軽く、動きやすかったため、
担ぎ手がわざと乱暴に担ぐ事もあったため、『暴れ神輿』の異名をとっていたそうです。

※四之宮は戦災で焼失しております。

昔の祭礼(観音祭・船祭)

昔の祭りは3月17日、18日の両日に行われ、丑、卯、巳、未、酉、亥の1年おきに本祭が行われました。

正和元年(1312)から三社の神話に基づき船祭が始められたと云われています。

江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置されました。
びんざさら舞も堂前の舞台で行われていました。
そのことからもわかる通り、当時は浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれました。
昔の氏子は観音の縁日にちなみ十八ヶ町あり、
南から諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、田原町、東仲町、並木町、
茶屋町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、浅草町、
聖天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、田町がそれでした。
このうち材木、花川戸、聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも千束郷とも云いました。

祭礼は今のように本社神輿をかつぎ廻ることよりも、
むしろ氏子十八ヶ町や、片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、
各町がおのおのの趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合ったようです。
この様に昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町にまで及ぶ広範囲のものでした。

祭礼当日の早朝、山車を中心とする祭礼行列は浅草見附の御門外に集合しました。

御蔵前から諏訪町、並木町と並んで仲見世から境内に入り、
観音堂に安置された神輿の前に参詣の上、おのおのの芸能を演じ、
随身門(二天門)を出て自分の町へ帰りました。
これが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂からおろし、
一之宮を先頭に浅草御門の乗船場まで担ぎます。
待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿をのせ、
浅草川(隅田川)を漕ぎあがって駒形から上陸し、
浅草神社にかつぎ帰ったと云われています。
この船祭は江戸末期まで続きました。
明治に入って廃絶し、明治五年から5月17日、18日の両日に祭礼を行い、
現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになりました。