浅 草 名 所 七 福 神 巡 り


大黒天


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平成廿二年一月六日

東京大手町  最高気温 10.4℃ 最低気温 3.7℃ 晴れ後快晴



色紙




七福神信仰

 人は、禍福を思って悩み、福運を求めて人生をさまよい、ゆえに神仏の信仰が生まれました。
 「開運」とひとことで片付けられないのが、人それぞれの願望が一様でないからです。
家内安全、商売繁盛、縁結び、出産、成長、立身出世、学業成就、健康長寿など人の願望にはいろいろあります。
 七福神の信仰も、こうした人の願望から発露したものです。
 仁王経という経典の中に、「七難即滅七福即生」とあります。
 つまり、教え導くことを篤く信じ行えば世の中の七つの大難(太陽、星の異変火災、水害、風害、旱害、盗難)はたちどころに消滅し、
七つの福が生ずるというのです。
 この七つの福というのは、その時代、その人の願望によって合理的に解釈されるもので、あなた自身の「心」の在り様といえます。
 といっても、七福神の神徳を信ずる事を篤くして、人生を救われる人がたくさんいることから、
その信仰が現代に継承されていることは確かなのです。




御朱印

大黒天

 古代インドにおけるマハーカーラ神のことで、悪魔退散の強力な守護神であります。
それが、仏教の日本への伝播とともに一方では魔を払う軍神、
また他方では食料を司る台所の神として崇められるようになりました。
 このように、古くは福神と軍神の二面性を有していたのですが、
室町時代になって「大黒(だいこく)」と「大国(だいこく)」の音読みが同じことから
次第に日本の伝統神に数えられる大国主命(おおくにぬしのみこと)になぞられるようになったのです。
 そして信仰が大衆化されるにしたがって、旧来の台所の守護神に大国主命の神徳が加わって、
糧食、財宝の神として広く祀られ、いつしか軍神の性格は弱まり、福徳の神として今日にいたっているのです。





巡礼・お遍路へ 七福神巡りへ 浅草名所七福神巡り





浅草寺の歴史



ご本尊の示現

ご本尊の示現

浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。
寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇三十六年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。
仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。
しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。
そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。
「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人々に語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。
この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。
また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。

上記写真:浅草寺の縁起絵巻の一つ「寛文縁起」(部分)。
檜前浜成・竹成兄弟がご本尊を感得。



慈覚大師による中興


慈覚大師による中興

やがて大化元年(645)、勝海上人という僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造した。
ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられた。
以来今日まで、ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安している。
平安初期の天安元年(857)、比叡山第三世天台座主慈覚大師円仁さまが来山した。
秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わる。
その後、浅草の地は、宗教的な聖地として次第に発展していく。
平安中期の天慶五年(942)、浅草寺に参籠した平公雅が、武蔵(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域)国守への補任を祈願した。
この願いがかない、公雅は報謝の印に大規模な七堂伽藍を建てた。
このため浅草寺は近郡に比類なき霊場となり、一層の信仰を集めた。

上記写真:土師中知が観世音菩薩を祀る場面。
右記写真:慈覚大師像。天台宗の宗祖・最澄に師事し、唐へ留学。
      帰国後は、東国を中心に多くの寺院を開創、中興した。


慈覚大師による中興


平安後期の災禍と再建


長久二年(1041)12月22日に起こった大地震により、浅草寺の堂舎はあらかた倒壊し、境内が荒れ果ててしまった。
寂円上人という修行僧が、この惨状を見て再建の志を起こす。
隣境の山中で材木を伐採し、野で葺萱を集めてまわった寂円上人は、永承六年(1051)ついに宿願を果たして本堂を落慶した。
しかしこの本堂も、わずか28年後の承暦三年(1079)12月4日、原因不明の火災によって炎上する。
この折、ご本尊が本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難されたとの故事が伝わる。
その後、仁安四年(1169)、学頭(寺の学問を統轄する者)であった用舜上人が中心となり、浅草寺再建に尽力したことが記録に残る。
このとき用舜上人が修した聖観音の秘法によって、轟然と大雨が降り注いだ。
その勢いに助けられ、山で伐採した材木はつぎつぎと隅田河畔に流れ着き、数多くの用材を無事に確保できたという。
浅草寺と隅田川との関係の深さを思わせるエピソードの一つである。
平安後期の災禍と再建
浅草寺所蔵「法華経」(国宝)。
平安時代の作で、能書家として知られる小野道風の筆によるものと伝わる。
大和絵による見返し絵も優美である。




源義朝ゆかりの榎観音


観音堂が焼けた承暦の火災から70年ほどのち、この折の霊験を聞いた源頼朝の父義朝が、浅草寺に観音像を奉納した。
その像は、ご本尊が難を避けるために飛び移った大榎でつくられたものと伝わる。
現在も「榎観音」として伝来し、毎年1月に執り行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれている。


右記写真:左手に蓮華を持ち、右手は掌をこちらに向けて差しのばし、
       衆生を救う姿勢を示している。
       お顔立ちも慈悲にあふれている。


源義朝ゆかりの榎観音

源頼朝の参詣と『吾妻鏡』に見る浅草寺

源頼朝の参詣と『吾妻鏡』に見る浅草

「浅草」という地名の確実な史料における初見は、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』であるとされる。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、建久三年(1192)鎌倉で営まれた後白河法皇の四十九日忌「百僧供養」に、浅草寺の僧侶3名が出仕したことが記されている。
そのほか、建長三年(1251)、浅草寺の食堂に暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事もあり、当時の関東における大寺の一つであり、幕府とも関係を有していたことを示している。
少し前後するが、観音さまを篤く信仰する源頼朝は、治承四年(1180)、平家追討の戦陣を進めて下総(現在の千葉県北部と茨城県の南部)から武蔵国へ入ったときに、浅草寺で勝利を祈願している。
また、その後の文治五年(1189)、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原氏征討の際にも、頼朝は戦勝を願って浅草寺に田園36町(約35万7000m2)を寄進した。
やがて源平の戦いで西上した武者たちは、西国三十三観音札所を見聞して信心を深めた。
それが契機となり、鎌倉時代初期、坂東にも三十三観音札所が整えられた。
このとき、第十三番霊場となった浅草寺は、東京都内では唯一の札所で、今も多くの巡礼者を迎えている。

      上記写真:源頼朝が戦勝祈願のために浅草寺に参詣する場面(「寛文縁起」)。
      頼朝は浅草寺に土地を寄進するなど、篤く庇護した。


足利尊氏ら武将たちの庇護

室町時代から安土桃山時代にかけ、霊験あらたかな寺として、浅草寺の名は各地に知れ渡り、足利氏をはじめ、さまざまな武将の崇敬を集めた。
室町幕府初代将軍の足利尊氏は、観応三年(正平7年=1352)に浅草寺へ参り、寺領を安堵した。
また応永二十年(1413)には、第四代鎌倉公方であった足利持氏が経蔵を再建して寄進している。
これ以降も足利一族は浅草寺と深いつながりをもち、本堂をはじめ末舎堂塔の造営修復などに当たった。
時代が下った戦国の世、関東に勢力を拡げる小田原城主北条氏綱は、浅草寺を祈願所とし、天文八年(1539)に川越城主大道寺駿河守を造寺奉行に任じて、堂塔を再建した。
浅草寺の別当職(住職)を勤め、中興第一世と仰がれる忠豪上人は、北条氏重臣の江戸城代家老遠山直景の流れを汲む。
忠豪上人は、浅草寺内の僧侶のうち学僧を「衆徒」、祈祷僧を「寺僧」と号して区分した。
そして衆徒12ヶ寺、寺僧21ヶ寺(のち22ヶ寺に増設)を制定。
それまで坊中にあった100余の支院を60余に整理し、浅草寺運営の基盤を固めた。



徳川家康も武運を祈念

江戸城の鬼門に当たること、天台宗の古刹として名高いこと、源頼朝をはじめとする源氏一族に信仰されてきた由緒深き寺であることが、江戸に数ある寺院の中から選ばれた背景であろう。
家康は、武家政治の創始者となった頼朝に尊敬の念を抱いていた。
天下分け目の関ヶ原の戦いを目前にした慶長五年(1600)9月1日、浅草寺の中興第一世忠豪上人は江戸城に召された。
頼朝が平家を追討したときと同様、今度も祈祷を修するよう家康に申し渡された忠豪上人は、古式どおり浅草寺で観音密供を修した。
そして9月15日早朝に始まった関ヶ原の戦いで、家康の率いる東軍が見事に勝利をおさめたのである。
これ以後、浅草寺の霊験は一段と天下に響き渡った。

 東照大権現像
                                東照大権現像。
徳川家康は死後に東照大権現の神号が贈られ、各地に東照宮がつくられた。
この画像は、江戸中期頃の作と考えられ、寛永寺の関係者によって浅草寺にもたらされたものと思われる。


貴重な奉納絵馬

浅草寺の寺宝でとりわけ特徴的なものが、200余枚現存する絵馬である。
谷文晁、鈴木其一、長谷川雪旦、歌川国芳、逸見(狩野)一信ら著名な絵師の作も多い。
江戸中期以降、さまざまな祈願や報謝の思いを託して、多くの人が絵馬を奉納した。
そして数々の絵馬が、衆人の眼にふれる本堂や絵馬堂(額堂)に掲げられ、世の注目を大いに集めた。
絵師たちは願主から依頼を受けて絵馬を描いた。
寺への奉納は、現代でいえば美術展へ出品するような側面もあり、それぞれが腕を振るって意匠や技量を競い合った。
画題はよく知られた歴史の一コマや物語などから選ばれることが多く、巨大な大絵馬も人々の話題をさらった。
かつては本堂の長押に架け並べていたが、昭和初期に行われた大営繕(昭和八年=1933に落慶)のときに外され、もとに戻されなかったため昭和二十年(1945)の東京大空襲の難をのがれた。
現在は五重塔院に保管されている(非公開)。

蒔絵神馬 絵馬「神馬」 東照大権現像
蒔絵神馬。
三代将軍徳川家光が寄進した絵馬。家光の父二代将軍秀忠も絵馬を寄進しており、これらは徳川家の篤い信仰の証でもある。


絵馬「神馬」。
江戸中期の文人画家・谷文晁の作。


絵馬「迦陵頻伽」。
雅楽の「迦陵頻伽」を描いたもの。
迦陵頻伽は人頭、鳥体をした空想上の動物で、極楽浄土に住むとされる。
江戸時代後期の絵師・鈴木其一の作で、天保十二年(1841)の制作



江戸時代の浅草寺

寛永二年(1625)、江戸上野に寛永寺が建立された。
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺で、第三代以降、歴代山主(住職)に皇室から法親王(輪王寺宮と称される)を迎え、仏教界に君臨した。
貞享二年(1685)、時の浅草寺別当忠運上人が、五代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で退寺の悲運に遭う。
以来、浅草寺は寛永寺の支配下に組み込まれた。
元文五年(1740)からは輪王寺宮自身が別当職を兼ね、その代理人である別当代(副住職)が実質上の総責任者として浅草寺を統括した。
寛永寺による支配は幕末まで続いた。
当時の仏教界において最高権力を握る輪王寺宮のもとにあることは、浅草寺にとって様々な面でプラスとなった一面も見逃せない。
代々の別当代や寺内関係者の記録は、『日並記』等と呼ばれ、寛保二年(1742)から明治期までの記録が現存し、浅草寺一山の歴史にとどまらず、広く江戸時代から明治時代に至る間を知るための貴重な史料となっている。
江戸幕府は次第に財政難となり、元禄の観音堂大修復以後、「お手許不如意」ということで、公儀普請(幕府が費用を負担する公共事業)がなくなってしまう。
その後の営繕は庶民の浄財によって成されたが、このことによって浅草寺と庶民との結縁はより一層強まっていった。


庶民文化の拠点


「東都名所」に描かれた浅草寺境内

浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとがあふれる江戸有数の盛り場になった。
水茶屋の看板娘たちは、しばしば浮世絵の主人公にもなった。
また、見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数々の興行が参詣人を喜ばせた。
こうした名人芸は江戸中の評判となり、「八代将軍吉宗が、鷹狩りの帰りに浅草寺へ立ち寄って曲独楽を見た」旨の記録も残る。
将軍だけでなく、その家族、大名、さらには輪王寺宮も折にふれて参詣し、奥山の妙技見物を楽しむこともあった。
将軍が参拝するときは特別に御前立ご本尊を開帳した。
またその後数日間、一般の人々に向けた「御成跡開帳」が行われ、将軍の恩恵が示された。
江戸後期の境内の諸相は、歌川広重の「名所江戸百景」「東都名所」などの錦絵や、町名主の斎藤月岑が刊行した『江戸名所図会』などによく表されている。

上記写真:「東都名所」に描かれた浅草寺境内。
       中央に本堂、右奥に五重塔が見える。
       右の仁王門の前や左の本堂裏には店が立ち並ぶ。


 浅草奥山にて興行仕候


「浅草奥山にて興行仕候」。
奥山(本堂裏)で行われていた手妻(奇術)を描いたもの。
演者は江戸で活躍した二代目柳川一蝶斎。

境内地が公園にそして近代へ


吾妻新橋金龍山真景及ビ木造富士山縦覧場総而浅草繁栄之全図

明治維新後、時代の激しい波は浅草寺にも押し寄せて来た。
浅草寺の寺領は太政官布告によって公収され、東京府の管轄となった。
公園に指定された境内地は行政区画上、1区から7区に分けて整備された。
江戸期に奥山で興行していた見世物小屋は、旧火除地を埋めて新たに造成された6区へ移転した。


大正3年(1914)頃の6区

大正3年(1914)頃の6区。建物は日本初の専門映画館「電気館」。

盛り場の流れを継いだ6区には、明治の終わり頃から映画館が林立し、東京屈指の歓楽街が形成されてゆく。
また、明治二十三年(1890)には、浅草寺の西側に、日本初のエレベーターを備えた凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔がつくられて、世間の注目を集めた。
浅草寺を中核とする浅草は、明治・大正・昭和にかけ、時代を先取りする街として大いに活気を呈していった。

上記写真:「吾妻新橋金龍山真景及ビ木造富士山縦覧場総而浅草繁栄之全図」。
明治二十年(1887)に6区に完成した富士山を模した観覧施設。



信仰の力による復興

本堂の前の常香爐

慶安二年(1649)の再建以後およそ300年の間、浅草寺の本堂は不思議と火事を免れてきた。
江戸時代の文献には、火が至近になると雨が降る、あるいは風向きが変わるなどの霊験が再三起きたと記されている。
大正時代の関東大震災でも仲見世は全焼しながらも、主要堂宇は奇跡的に火難から逃れ、境内に5万人もの人が避難して救われたという。しかし、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲では、諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。
新本堂は、昭和二十六年(1951)に起工。
天皇陛下より金一封を拝領し、ご信徒の熱意あふれる協力も得て7年後の昭和三十三年(1958)、無事に落成を見た。
また昭和三十五年(1960)には、松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、慶応元年(1865)の焼失以来95年ぶりに雷門が再建され、昭和三十九年(1964)には大谷重工業・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、宝蔵門が再建された。
五重塔は昭和四十八年(1973)に再建され、霊牌殿には永代供養のために納められた位牌が約3万基安置されている。
開創以来今日まで1400年の長きにわたり、浅草寺は多くの人々の信仰心に支えられてきた。
そして現在、日本全国は言うまでもなく、世界の各国からも、年間延べ約3000万人もの人々が参拝に訪れている。
これもひとえに、ご本尊観音さまによるお導きであり、今後も浅草の地域とともに新たな歩みを見せてゆくことであろう。

上記写真:本堂の前の常香爐。香炉から立ち上る煙をいただいて無病息災を祈る参拝者が絶えない。

現本堂の上棟式(昭和27年:1952)

現本堂の上棟式(昭和27年:1952)。




浅草観音のご避難

火災が多発した江戸時代、大火の際は必ず、非常用のお輿にご本尊と御前立を奉安し、安全な方向の寺院に向けてご避難した。
そして鎮火を確認すると、一刻の猶予もおかず本堂へご帰座していただくことが慣例であった。
護衛には、寺の開創以来仕えている土師氏と檜前兄弟の子孫3人、寺侍数名など10人近くの人が当たった。
また、どれほど混雑していても、浅草観音のご避難とわかれば道は開かれ、通り抜けられたという。
東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢(淡島堂境内に現存)の中に安置されていた。
これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。
                                                    (浅草寺ホームページより)




朝8時過ぎ、雲一つ無い晴天です。 8時35分 大宮駅 9時08分 上野駅
9時12分 東京メトロ 上野駅 9時17分 浅草駅 浅草駅 東武電車
日光 鬼怒川 会津高原 伊勢崎 桐生
神谷バー 浅草一丁目一番一号 1階 神谷バー  3階 喫茶神谷 酒類・土産品
東西めぐりんバス 1回100円
雷門  雷門の大提灯  扁額「金龍山」
雷門の裏側
風雷神門 平成十五年八月吉日
提灯の底に施されている龍の彫刻 金龍山 浅草寺 縁起    

雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」という。
その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わる。
雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。
総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。
風神と雷神は名のとおり風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られた。
同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められている。
 
風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、
文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである。
 雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返している。
寛永12年(1635)に建立された門が同19年(1642)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649)に再建。
旧来の門を上回る美観を呈した。
しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)に駒形町からの失火で焼失。
やがて寛政7年(1795)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになった。
寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。
しかし、幕末の慶応元年(1865)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまう。

この慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されなかった。
現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。
当時、松下氏は関節痛を患っていたが、それを聞いた当山中興第24世清水谷恭順貫首がご本尊に祈願したところ快復し、
その御礼の意を込めて松下氏個人で寄進されたものである。

江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
 慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を補った。
昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像である。
 また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、水を司る龍神であり、浅草寺の護法善神である。
昭和53年(1978)、松下グループ有志の寄進で、天龍は平櫛田中氏、金龍は菅原安男氏の作である。

浅草名所七福神 浅草観光連盟 お土産やさん
仲見世通り
空に浮かぶ駒 宝蔵門(仁王門)

門は初層が五間で、両端の二間には仁王像を奉安し、中央の三間が通行のために開口している。
仁王像が安置されていることからもわかるように、この門はもともと仁王門と呼ばれていた。
『浅草寺縁起』によれば、平公雅が天慶5年(942)に武蔵守に補任され、その祈願成就の御礼として仁王門を建立したのが創建という。
以来、数度の焼失と再建ののち、徳川家光の寄進により慶安2年(1649)に落慶した仁王門が、昭和20年まで諸人を迎えていた。
今に伝わる錦絵の数々に描かれた仁王門は慶安の門である。


江戸時代、浅草寺は庶民に開かれた寺院として多くの参拝者を集めたが、
一般ご信徒への特別なはからいとして、数日に限って門の楼上に登ることが許された。
元旦、2月15日(涅槃会)、4月8日(仏生会)、7月15、16日(盂蘭盆会)、春秋の彼岸中日の7日間で、
当時は近辺に高層建築がなかったため、人々は楼上からの眺望を大いに楽しんだ(現在は行っていない)。
仁王像は霊験あらたかな像として庶民の信仰を集め、噛んでまるめた紙を仁王像に投げつけ、
紙が仁王の身体にくっついたら願いがかなうといった俗信も生まれた。
 
また、江戸時代は仁王門の左右から塀がめぐらされ、暮六つ(季節により変動があるが午後6時頃)に雷門・仁王門が閉じられると、
夜間の境内は人の出入りのない静寂な空間となった。
 昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により観音堂・五重塔・経蔵などとともに焼失する。
昭和39年(1964)に大谷重工業社長・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建された。
経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と改称された。


宝蔵門に収蔵されている経典とは、「元版一切経(国の重要文化財)である。
もとは鎌倉の鶴岡八幡宮に収蔵されていたものであるが、
明治の神仏分離の際にあわや焼却処分されるところを、
浅草寺に深く帰依していた尼僧の貞運尼が買い取り、浅草寺に奉納したという由緒をもつ。
この「元版一切経」を鎌倉から浅草まで運ぶ際に助力したのが、町火消し十番組の組頭・新門辰五郎である。
境内にあった新門の門番を務めたことから新門と名乗り、安政年間(1854~60)に浅草寺の経蔵を寄進している。
戦災で経蔵は焼失したが「元版一切経」は疎開しており無事だった。
宝蔵門は篤信の人々に守られた宝物とともに、多くの参拝者の安寧を見守っている。

扁額「淺草寺」
本堂改修工事中

金龍山浅草寺平成本堂大営繕

平成21年11月30日 - 平成22年11月予定

高さ4.5m・幅1.5m、重さ 500kg、藁2.5t使用
山形県村山市有志より平成30年10月奉納
〔昭和16年(1941)の初回以来、8回目〕
わらじは仁王さまのお力を表し、
「この様な大きなわらじを履くものが
この寺を守っているのか」
と驚いて魔が去っていくといわれている。
高村光雲作の龍神像(沙竭羅龍王像)  「墨絵の龍」(東 韶光 画)

お水舎 おみずや



沙竭羅竜王像(さからりゅうおうぞう)


東京美術学校の彫刻科教授として岡倉天心校長に招かれた高村光雲作


沙竭羅竜王像と龍

仏師光雲は、自分は職人だから学校で教えることはできないと固辞。


墨絵の龍を見上げる龍

岡倉は、職場を学校に移すだけでよいと、説得。


仕事現場を見せることで教育にかえたと。


光雲は、江戸下谷生まれ。幼名は、中島幸吉。


光雲は、仏師高村東雲に木彫を学び、東雲の姉の養子となり高村姓を継ぐ。


光雲は、明治10年第一回内国勧業博覧会に東雲の代作として出した「白衣観音」が
最高賞の竜紋賞を受賞。




五重塔
写真:塔のまわりに足場が組まれた絵 写真:旧五重塔の古写真
朱も鮮やかな五重塔は、昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔である。
外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
 塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源とする。
浅草寺の五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966)に奉戴した仏舎利が納められている。
 浅草寺に塔がはじめて建立されたのは、天慶5年(942)、平公雅によるとされる。
当時の塔は三重塔であり、本堂に向かって二つの塔が左右に配された、「薬師寺式伽藍」ではなかったかという見解もある。
というのも、江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、
当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していたからである。
焼失後、慶安元年(1648)に徳川家光が五重塔を再建するものの三重塔は復興されなかった。
 この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残る。
江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。
特に浅草寺の五重塔は、浅草や浅草寺を描いた絵画における必須のモチーフであり、浅草のランドマークであった。
 明治19年(1886)、各所傷んでいた塔を修復することになり、塔のまわりに足場が組まれた。
このとき修復の費用を捻出するために、一般の参拝者に足場を登らせた。
足場に設けられたスロープ沿いに最上層の屋根部分にまで登れたため、人びとは遥か遠くまでの眺望を楽しんだことだろう。


本堂内部    開運御守護 浅草寺
天井画 天上之図

本堂(観音堂)

ご本尊聖観世音菩薩を祀る中心堂宇

浅草寺の本堂はご本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる堂宇である。

写真:「応永縁起」に描かれた創建期の本堂

「応永縁起」に描かれた創建期の本堂。本堂は創建以来、焼失と再建を繰り返した。

写真:絵馬「浅草寺境内図」

「東都名所」浅草金龍山に描かれた境内図。歌川広重画

国宝に指定されていた旧本堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失したが、
その後全国のご信徒からのご浄財により、昭和33年(1958)に今日の本堂が再建された。
 本堂の創建は、ご本尊が示現された推古天皇36年(628)にさかのぼる。
檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川(宮戸川)で観世音菩薩のご尊像を感得したのち、
10人の草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂に一時安置された。
その後、土師中知が私邸を寺として、この聖観世音菩薩のお像を奉安したのが、本堂の起源である。
 本堂はその長い歴史において、幾度も被災し、そして再建されてきた。
縁起や記録類によると、現在まで20回近い再建を数える。
そのほとんどが失火や落雷、延焼による焼失であり、地震では長久2年(1041)に一度倒壊している。

もっとも長い期間ご本尊を守ってきた本堂は、慶安2年(1649)に徳川家光が願主となって再建された旧本堂である。
じつはこれ以前の寛永12年(1635)に、同じく家光を願主として本堂が再建されたのだが、
寛永19年(1642)、わずか7年で門前町の失火により延焼してしまった。
このように焼失後間もなく再建されたのは、家光をはじめとする幕府が浅草寺をいかに厚く庇護していたかを物語る。

慶安の本堂は昭和20年の焼失まで約300年にわたり観音信仰の中心を担い、絵画や写真などに多数記録されている。
明治40年(1907)に本堂は国宝に指定され、大正12年(1923)の関東大震災でも倒壊しなかった。
ただし破損した箇所があったため、昭和8年(1933)に大営繕が施された。
昭和20年に東京大空襲で焼失したのちは、本堂の焼け跡に仮本堂(現在の淡島堂)が設けられ、難を逃れたご本尊をお迎えした。
 今日の本堂は慶安の旧本堂の姿を基本に、鉄筋コンクリート造りで再建されたお堂である。
入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高で遠方からも望見できる。
かつては3倍の重さの本瓦で葺かれていたが、安全強化のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、
平成22年(2010)に営繕が円成した。


本堂は南に面している。
本堂へ上がる階段の上部にせり出した向拝には、直径4.5mの大提灯が掛かる。
堂内は内陣(ないじん)と外陣(げじん)に分けられており、
外陣に入ると、正面上に雄渾な筆致で「施無畏(せむい)」と書かれた扁額が掛かっている。
江戸時代の儒学者で能書家として知られた深見玄岱(1649~1722)の筆による。
外陣は天井まで約10mの大きな空間である。
ぜひ天井を見上げて、そこに描かれた絵を観ていただきたい。
三面の大きな絵は、中央が川端龍子画「龍之図」、左右が堂本印象画「天人之図」「散華之図」である。
慶安の旧本堂にも「天人之図」が描かれていた。
江戸時代の参拝者は天井を見上げて天人にも祈願していたようで、「いろいろの 願を天人 聞き飽きる」と川柳に詠まれている。

靴を脱いで畳敷の内陣に上がると、その中央にはご本尊を奉安する御宮殿(ごくうでん)があり、その内部にお厨子が安置されている。
御宮殿は唐様・三方軒唐破風千鳥破風付、八棟造りで、鎌倉時代末期の建築様式を模したもの。
堂内のお堂というべきで、最も神聖な空間を結界している。
内部は二間の畳敷きになっており、上段の間にはお厨子に納められた「秘仏」のご本尊聖観世音菩薩、
下段の間にはご本尊のお身代わりである「御前立ご本尊」の聖観世音菩薩のほか、
徳川家康、徳川家光、公遵法親王などの護持仏であった観音像が安置されている。

御宮殿の前面には「お戸帳」と呼ばれる、美しい刺繍を施した布が掛けられている。
 御宮殿の左右には梵天と帝釈天の立像が安置されており、ご本尊の脇侍として内陣右奥に不動明王、左奥に愛染明王が祀られている。
また、御宮殿背後の裏堂の中央には観世音菩薩(通称:裏観音)が安置されている。
 本堂では日々の勤行はもとより、多くの年中行事が営まれている。
とくに毎月18日の観音さまのご縁日に堂内は多くのご信徒で満たされ、真摯な祈りの空間となる。
本堂参拝のおりは内陣に上がり、観世音菩薩の御慈悲を身近に感じていただきたい。

御宮殿

御宮殿

本尊

ご秘仏本尊聖観世音菩薩、上段の間安置
お前立本尊(慈覚大師 作)、下段の間安置

ご真言「オン・アロリキャ・ソワカ」



脇侍

愛染明王(向って左)・不動明王(向って右)両坐像
梵天(向って左)及び帝釈天(向って右)両立像

愛染明王 不動明王

(左)愛染(あいぜん)明王とは、我々の煩悩を菩提心に昇華させてくださる仏さまである。
朱の体をし、武器を携えた六臂のお姿。
縁結びの仏さまとしても信仰されている。

(右)不動明王とは、剣と羂索(けんさく)を携えた怒ったお姿をし、教化し難い者の心を菩提心へと導いてくださる。

(左)梵天(ぼんてん)、(右)帝釈天(たいしゃくてん)ともに元々インドの神さまで、仏教に取り入れられた仏さまである。
御宮殿にお立ちになり、ご本尊を守護される(上部御宮殿の画像をご覧ください)。




本堂内陣

本堂内陣


本堂外陣

本堂外陣





        宝篋印塔

 宝暦十一年(1761)、浅草寺信徒約千人によって建立され、明治四十年(1907)に改修再建されたもの。唐銅製。
 宝篋印塔とは、塔内に『宝篋印陀羅尼経』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得るといわれる。  
            
金龍山 浅草寺
       阿弥陀如来像

 阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さま。
この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄六年(1693)に千人近い信徒によって建立された。
もとは本堂裏にあったものを、平成六年にこの地に奉安した。総高七・五メートル。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。
         金龍山 浅草寺
      石橋(しゃっきょう)
 現存する都内最古とされるこの石橋は、元和
四年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)
が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
 この石橋は昭和二十三年、文部省より重要美術品に認定されている。
              金龍山  浅草寺
西 仏 板 碑
観世音菩薩    南無阿弥陀佛   大勢至菩薩
影  向  堂 (ようごうどう)
生れ年十二支本尊 影向堂    
   淺草名所七福神 朱印所

     坂東三十三観音札所 第十三番
     江戸三十三観音札所 第一番
     浅草名所七福神 大黒天


影  向  堂  
三峯神社 


以下の写真は、平成21年8月7日秩父札所巡りで足を伸ばして三峯神社をお詣りしたときに撮影しました。

扁額「三峯神社」

狼の像 三ツ鳥居(珍しい鳥居です。) 狼の像 (狛犬ではなくオオカミです。)
日本武尊の銅像
随身門

この極彩色に彩られた
拝殿は、寛政12年(1800年)に建立、
昭和37年(1962年)に改修され、平成16年(2004年)に漆の塗り替えが行われたもので、
その装飾の豪華絢爛ぶりは息を呑むほど。
正面の扁額は有栖川宮熾王(たるひと)親王の御染筆です。

嘉永6年(1853年)に建立された手水舎
龍などの極彩色の装飾が実に精緻かつ華麗で見ごたえがあります。
手水舎の向かいにある高さ6mの八棟灯籠
安政4年(1857年)に建立され、
当時としては珍しい大型で木製の灯篭。
その精巧な彫刻も必見です。
昭和48年(1973年)春に修復しました。


以下の写真は「たびこふれ」より

拝殿前の脇を固めるのは、樹齢800年といわれる巨大杉。
鎌倉時代の武将・畠山重忠が奉献したと伝えられ、別名「重忠杉」とも呼ばれています。

「神木より発する『氣』は活力そのもの」と立札で表示されているように、御神木に宿る"氣"をここで授かります




奥宮

遥拝殿から拝んだ奥宮は実際に登ることができます。
片道約2.5km、徒歩1時間半前後で、妙法ヶ岳の山頂1,332mを目指します。
ちなみに、毎年5月3日は山開き、10月9日には山閉の祭事が行われます。
(山閉の後でも登山は可能)。



三ツ鳥居手前にある食事処「山麓亭」横が登山口。
ここは雲取山登山と同じスタート地点になります。
奥宮までには三つの鳥居があり、一つ目の鳥居に登山届用BOXと注意事項が書かれた看板があります。
また、熊出没エリアでもあるので熊鈴があると安心です。



鎮守の杜に足を踏み入れた瞬間、神妙な気持ちになるというか、独特の空気に包まれます。
真っすぐ伸びた杉木立の参道が奥宮へと自然に導いてくれるようです。



三つ目の鳥居


最後の難関、急勾配の階段と鎖場


奥宮




ここから浅草寺に戻ります。
都重宝 淺草寺六角堂 日限地蔵尊
       日限地蔵尊
   六角堂のご本尊。
   地蔵菩薩さまは、慈悲のお心で、この
  娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもお
  もむき、衆生を救われる仏さま。
   特にこの日限地蔵尊は、何かのお願い
  事に対し、日数を定めて祈願すれば、古
  来より霊験があるとされる。
   造立年代は不明。木造。
               金龍山  浅草寺
   
六地蔵石幢  
一言不動尊  
百度石 聖観音菩薩像
千日参供養佛   享保3年(1718)孝山義道ほか数十名で造立。
九頭竜権現  
        金龍権現

寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまの
ご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたと
されることから、浅草寺の山号を「金龍山」という。
このことに因み、現在、三月十八日と十月十八
日の年二回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の舞」が
奉演されている。
                金龍山  浅草寺

 
金龍権現
出世地蔵尊
高徳地蔵
子育地蔵尊
弁財天
       銭塚弁財天

 弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守
りする善神である。芸能や学問の上達、財宝や
福徳の神とされる。
 この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁天さ
まとして、特に信仰が篤い。
             
               金龍山 浅草寺
扁額「弁才天」
めぐみ地蔵尊
恵日須 大黒天
恵日須

弘法大師作

大黒天
大黒天の前には順番を待つ人で列が出来ています。