第七期 一日目
平成23年9月17日

高松  最高気温30.1℃  最低気温24.7℃ 曇り時々雨晴れ間あり 台風15号の影響で天気の変化著しい
      
(志度寺〜番外霊場)
番外霊場 日内山 霊芝寺
                              ひうちざん              れいしじ

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日内山 霊芝寺

高野山真言宗

御本尊 十一面観世音菩薩

オン マカ キャロニキャ ソワカ

 寺伝によれば、平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に空海(弘法大師)が、師である岡田牛養を祈念し、建立したと伝えられています。
かつては、東林山遍照光院(とうりんざんへんじょうこういん)または火内山大岡寺(ひうちざんたいこうじ)と号しました。
戦国時代の天正年間(1573〜1593年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭い、焼亡しました。
 江戸時代前期の寛文2年(1662年)山城国西明寺の僧・恵忍が来錫し、寺院再興を発願しました。
高松藩初代藩主松平頼重が寺院の復興を命じ、山門が復興されました。
徳川光圀の子で頼重の養子となった二代藩主頼常は延宝4年(1676)寺号を東林山霊芝寺と改め、本堂を建立しました。
享和2年(1802)本堂が再建されましたが、文政11年(1828)・天保14年(1843)と火災に遭い、焼亡しました。
 明治2年(1869)山号を日内山と改め、堂宇が再建されました。
昭和8年(1933)放火により再び焼亡しました。
現在見られる伽藍は、昭和13年(1938)に再興されたものです。
山門は雨滝城の裏門を移築したものと伝わっています。


高松藩主墓所

寺院の裏山に、二代藩主頼常と十代藩主頼恕の墓があります。
高松藩松平家の宗旨は浄土宗で菩提寺と墓所は法然寺にあります。
しかし、頼常は水戸家の出身であるため、祖父頼房・父光圀に倣い、儒教方式でこの地に葬るよう遺命しました。
このため、法然寺から離れた場所に儒式墓で営まれています。
同様に頼恕も水戸家の出身であるため頼常に倣って儒式墓でこの地に葬りました。
門を入ると位牌所があります。
階段を進むと頼常の墓があり、更に奥に頼恕の墓があります。
頼常の墓碑銘は「故四位少将南嶺源節公之墓」、頼恕の墓碑銘は「故正四位下中将南溟源愨公之墓」と刻まれています。


9時04分志度寺を発ち、雨の中国道11号線方面に向かい、交差点を左折しました。
国道から遍路道に入ると工事中の道路がありました。
花梨の実がたくさん付いてました。JR高徳線を特急電車が通過しました。雨はまだ強く降っていました。
心技体の石柱が建っており、お不動様もありました。不思議な処でした。
今度は普通電車が通過しました。香川県はオリーブに力を入れているようであちこちに植えられてました。
遠くに今朝通った来た高速道路が見えました。
彼岸花が雨に打たれながらも咲き誇ってました。
9時38分 高速道路の下は格好の雨宿りの処ですので休みました。ホテイアオイが淡い色の花を咲かせていました。
高速道路の下を発ち後ろを振り返ると、四國霊場の案内標識が並んでました。
津田東ー鳴門 雨通行止 普通の民家にしては大きな門構えなので驚きました。
池には蓮の葉がびっしり詰まってました。花が咲いていると見事でしょうね。 こちら民家も立派な門構えでした。
志度小のバス停ですが、地図を見ると志度小末(すえ)分校とありました。
水の流れが激しかったです。
末公民館バス停からでは、大窪寺には行かないようでした。
雨が上がってきたようでした。
道路を拡張している工事が行われてました。
10時15分 日内山霊芝寺の入口に来ました。
       遠くに山門が見えました。    日内山霊芝寺  山門の脇には鐘楼が建ってました。御朱印がいただけるでしょうか
山門の手前には大平外相の石柱が建ってました。
本堂に入ってお参りしました。
残念なことに御本尊様は厨子の扉が開いてなかったので拝めませんでした。
                 日内山 霊芝寺 ↑                 ↑
御朱印所らしき玄関の呼び鈴を押したのですが、どなたもいらっしゃらないようでした。 残念でした。
四國番外霊場霊芝寺は、讃岐観音霊場第十番も兼ねているようでした。
また雨が激しく降って来ましたので墓所の方へ行くのを諦めました。
詞梨帝堂
雨に煙る三佛様とお地蔵様
参道には可憐な花が咲いてました。 10時46分雨の中県道141号線に出ました。