三日目
平成22年3月23日
                      
徳島   最高気温 9.8℃  最低気温 8.2℃  曇り後雨

カウンター
(十一番霊場〜十二番霊場)
十二番霊場 摩盧山 焼山寺 正寿院
 まろざん          しょうさんじ         しょうじゅいん  
秩父・最上・西国・坂東札所巡りへ
摩盧山 焼山寺

高野山真言宗

御本尊
虚空蔵菩薩

ノウボウ
アキャシャ
キャラバヤ
オン
アリキャマリボリ
ソワカ
御詠歌

後の世を 
思えば苦行
焼山寺
死出や三途の
難所ありとも
御朱印 御影


柳水庵 一本杉淨蓮庵 杖杉庵

御影 御影 御影


 
  お四国詣り六つの難所(鶴林・太龍・神峯・横峰・雲辺および焼山寺)の一つ焼山寺で、
 役行者小角が開創されたお寺です。
  昔、焼山寺一帯に毒蛇がおり、作物を害し、人々に危害を与えていました。
 弘法大師が来られた時も、全山が火の山となり、お大師様の登山を拒もうとしました。
 お大師様が進むにつれて火は次第に消え、山頂近くに着くと、大きな岩穴に悪魔の蛇がいました。
 お大師様は、虚空蔵菩薩の助けによって毒蛇を岩穴に封じ込め、
 以後、人々は安心して住むことができるようになったそうです。
 お大師様が登ろうとした時、全山火の山と化したところから焼山寺と名付けられました。
 火の恐れがあるところから、山号を摩盧山と言うようになったものです。
 摩盧とは梵語で水輪の意味で、火を防ぐための名前です。



7時47分 本堂と不動堂との間を通り抜け、焼山寺への道を上り始めました。
四国第一番霊場 霊山寺の祠がありました。
色々な札が掛けられてました。
最後まで残った空海の道ウォーク、焼山寺へんろ道 健脚5時間、平均6時間、弱足8時間。
さて私の足はどれかな。12.3qの焼山寺への道のりを何時間かかって上れるでしょうか。
急いで上るつもりは毛頭無く、17時までに着ければいいと思ってました。
それに途中から雨になる予報なので、尚更ゆっくり歩いて行こうと考えてました。
突き当たりのようです。 第七番 十楽寺 第九番 法輪寺
7時49分 ここでは焼山寺まで16qとなってました。
どちらの標識が正しいのでしょうか。 
案内書【四国遍路ひとり歩き同行二人(地図編)】では、藤井寺からは12.9qとなってました。
四国霊場の御本尊様が次から次へと並んでました。
7時56分 へんろ石がありましたが、よくここまで運んできたと思いました。
7時58分 せせらぎが流れてました。
7時58分 へんろころがし1/6とありました。        ↑
西国七番 岡寺の御詠歌の石碑がありました。
「けさ見ればつゆ岡寺の庭の苔さながら瑠璃の光なりけり」
道はさらに上っていきました。
8時7分 ベンチが見えました。
ここで休憩していると、外国の方に、座るように勧めましたが、休まず上がっていきました。
8時13分 また歩き始めました。
8時16分 視界が開け町並みが見えました。 
焼山寺へ11.6qとありました。
8時27分 休憩所がありました。
このような休憩所がもっと先にあると嬉しかったのですが、このときはまだ雨が降っていませんでした。
8時38分 昔のへんろ石 よくここまで運んだものだと感心しました。

マムシ注意とありました。夏は怖いですね。 
先の方で休んでいる人がいました。
9時7分 長戸庵まで1000mとありました。
ということは、ここは、藤井寺から2.2q、焼山寺まで10.7qの地点でした。
このような石畳の道は、意外と歩きにくかったです。
9時33分 長戸庵まで560m
霧が立ちこめた杉の林を下って歩きました。
写真では明るいのですが、相当暗くなってきました。
9時58分 番外霊場長戸庵(ちょうどあん)に着きました。

弘法大師が、焼山寺の山を上るときに、ここで休息された処だという。
大師を祀るお堂があり、一息入れるのに「ちょうど塩(あん)」梅良き処。
道標の役目も果たし、遍路の決意も新たにさせる処である。  
解説書より藤井寺より焼山寺までの
断面図を参照してください。
こちらは、樋山地、石鎚神社への道でした。
10時2分遍路道を進みました。  

10時12分 開けた処に来ました。
辺りは相当雲が濃くなってきました。 
もういつ雨が降り出してもおかしくない状況になってきました。
休憩所にはまだ新しい忘れ物がありました。
きっと今朝でしょうね。
輪袈裟とみかんがありました。
きちんと並べたのは私ですが・・・
また上り坂になりました。
10時23分 へんろ石
右 十二ば(?)ん
10時29分   左十二番 ← →右十一番
10時33分 へんろころがし2/6 急な上り坂になってきました。
相当暗くなってきました。写真では暗く写らないのですね。
10時54分 柳水庵まで1.8q徒歩約35分
11時9分 柳水庵まで1.2q徒歩約25分  11時16分
11時16分
11時33分 柳水庵の屋根が見えてきました。
11時35分 柳水庵(りゅうすいあん)に着きました。 
「お納経は焼山寺にて受付ます。」とありました。

弘法大師がこの地で休息された際、付近に水がないので、柳の枝を採って加持されると清水が湧きだして来たので、
一宇を建立し尊像を刻まれ安置されたという。
山中三里間の難所に欠くことのできない恵水の霊地である。  解説書より
市外電話機が設置されてました。
焼山寺まで6.3q、藤井寺まで6.6qということは、半分以上歩いてきたことになりました。

このときは誰もいませんでしたが、話によると日によっては宿泊ができるようです。(確かではありませんが)
数年前のHPにはここに泊まったことが載っていました。
11時38分柳水庵を発ちました。 
お役所の人たちが休憩してしているところを通り過ぎ、先を急ぎました。
11時43分 焼山寺まで30mではなく、30m先を左に曲がるとありました。
残念でした。
そうですよね。
先ほど後6qとあったのですから、まだ焼山寺に着くわけないですよね。
折角ここまで上って来たのにまた道は下っています。 
今日歩く前に、上っては下ってまた上っては下ることを知ってはいましたが・・・・・
12時5分 まるで山水画のような光景でした。
12時21分 また上り道になりました。
12時32分 へんろころがし4/6
白い猩々袴がとても綺麗でした。       12時58分 三十八丁 
13時10分 一本杉 淨蓮庵(じょうれんあん)に着きました。
霧の中にすくっと立っているお大師様に思わず手を合わせてました。
淨蓮庵
弘法大師が当地を通過されるとき、木の根を枕に仮眠された。
夢の中に阿弥陀如来が現れたので、誓願をこめて、尊像を刻み、堂宇を建立し安置された。
そのときお手植えになった杉は、崇高霊気あふれる老大木となり、今もって通過する遍路を感動させている。
大正十五年、京都市の篤志家河地幾太郎氏施主にて、四十二の石段をつくり、
厄除大師大銅像を建立安置、多くの人々に感銘を与えている。
              お納経は第十二番焼山寺で受け付けている。      解説書より
13時15分 淨蓮庵を発ちました。  またまた抜かれました。
13時49分 十九丁
右の道が遍路道でした。また下り道になりました。
13時55分 へんろころがし5/6まで来ました。
14時5分 民家の屋根が見えてきました。
雨がだいぶ強く降ってきました。  
五番霊場地蔵寺(五百羅漢)で会った外国人親子とまた会いました。
雲は切れてますが、雨は降り続いてました。
初めて見ました。猪の毛皮が吊してありました。
こんなにたくさんいるとは知りませんでした。
14時22分 沢まで下りてきました。
 「へんろころがし6/6」「十六丁=2q弱」なので17時前までには着ける目処が立ちました。
14時26分 いよいよ最後の上り坂に入りました。
14時52分 十一丁(1q強)となりました。
15時6分 八丁(800m強) スパッツを付けた完全な雨具の装備をした二人連れにも抜かれました。
私と足取りが全く違いました。
15時16分 四丁(400m強)ここを過ぎたらなだらかな道になってきました。
15時23分 駐車場から歩いてきた人に
「私も以前は歩いて廻りましたよ。ご苦労様ですね。あと少しですよ」と言われました。
文珠菩薩
15時30分 焼山寺山門にようやっと着きました。
休憩時間を含めて7時間40分かかりました。
山門の仁王様は厳めしい顔をしてました。 
とても暗かったのでよく撮れませんでした。
扁額には、摩盧山と書かれてました。
御本尊「虚空蔵菩薩様」のお前立ち 
御本尊様は秘仏だそうです。






日本ブログ村より

雨脚は激しくなってきました。
本堂の後に大師堂をお参りしました。
本堂の脇には三面大黒天様(大黒天、毘沙門天、弁財天)が祀られてました。
雨の中、境内を一回りしました。



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                                         雨に煙る焼山寺                
                                       鐘の由来                    
                                          鐘楼堂
16時28分 山門を後に3.3q先の鍋岩に向かいました。
自動車道路から山道に入りました。道を間違えてないか半信半疑で歩きました。
16時58分 杖杉庵(じょうしんあん)に着きました。
雨は相当強く降ってきました。
お四国遍路の元祖といわれる衛門三郎最期の地
                     
  三郎は伊豫国荏原荘の貪欲な長者で、物乞の乞食僧を追い返し、
 乞食僧が門に立つこと八日目に、その鉄鉢を奪って投げ捨てた。
 鉄鉢は、八つに割れて八方に散り、その翌日から八日の間に三郎の八人の子供は次々に死んでいった。
 三郎は深く反省し、乞食僧こそ弘法大師に違いないと信じ、大師にお目にかかり懺悔したい一心でそのあとを追った。
  ところが、八十八ヵ所を二十回巡っても大師には会えず、二十一回目のとき老いと病のためにこの地で倒れた。
 偶然そこへ大師があらわれ
 「修行したので罪業は消滅した。なにか未来に望みでも」と尋ねられた。
 三郎は、「それなら私は伊豫の城主河野一族なので、その世嗣に生まれたい」といった。
 大師は、小石に「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。
 まもなく三郎は大師を拝みつつ安らかに往生した。
 ときに天長八年十月三十日であった。
 遺骸は手厚く葬られ、三郎の杖が墓標に立てられた。
 その杖から芽が出て大杉となり、杖杉と呼ばれるようになった。
 この杉は、享保年間に火を発して焼けてしまい、現在の杉はその後芽生えたもの。
 杉の近くに三郎の墓石があり、近くのささやかな御堂に弘法大師と三郎の木像が祀られている。
  衛門三郎は二十一回の巡拝を重ねているが、記録に残っている巡拝回数の最も多いのは、
 山口県出身の中務(なかつかさ)茂兵衛で、慶応二年から大正十一年までの間に二百八十一回巡拝している。
 茂兵衛は父の死後十九歳で四国へ渡って遍路となり終生巡拝を続け、
 八十八度目を満願してから遍路道中に「へんろ標石」を建立し、現在も二百二十基残っている。
 利他の行に精進した晩年の茂兵衛は生き仏として拝まれたという。 
                                      「四国へんろ」 平幡良雄著より


17時の夕焼けチャイムが鳴り始めました。
お参りが済み、宿舎に向かいました。
17時8分 梅林を抜け、杉木立のとても暗い中を通りました。
石が敷き詰めてあり雨で濡れて滑りそうなので、気を付けて歩きました。 17時21分自動車道路に出ました。 
17時26分 鍋岩橋に来ました。
へんろ駅という場所に来ましたが、バスの駅でしょうか。
ベンチが一つあるだけで他には何もありません。
17時35分 なべいわ荘への橋が見えてきました。
17時39分 雨の中の長い歩きの一日が終わりました。
ようやっとなべいわ荘で靴を脱ぎました。
靴が雨で濡れていたので、丸めた新聞紙を靴に入れました。
玄関には丸めた新聞紙がたくさんおいてありました。
宿の様子からすると、どうも私が最後のようでした。
2階の部屋に案内されました。
早速ドライヤーで濡れたものを乾かしました。
ドライヤーを持ってきて助かりました。
風呂に入り、濡れた衣服を洗濯機に入れました。
18時30分 夕食は広い食堂でみなさんと一緒に食べました。
あの外国人親子もいました。
ここは、今話題(6月3日現在)の人、菅直人さんが泊まった宿でした。
今日は相当疲れました。