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第廿二番霊場 阿遮山 圓満寺 不動院 浅草寿不動尊 |
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平成廿三年八月四日 |
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4日 東京大手町 最高気温 31.1℃ 最低気温 24.3℃ 晴れ時々曇り |
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阿遮山 圓満寺 不動院 浅草寿不動尊 小光明(しょうこうみょう)童子 真言宗 智山派 |
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御詠歌 御子護る 不動の智慧は あらたけく 大師とともに おはす寿 |
御朱印 | 御影 | 小光明(しょうこうみょう)童子 |
不動院の縁起 |
不動院は、慶長16年八丁堀に寺地を拝領して創建、その後浅草へ移転したといいます。 良弁僧都作の不動尊像を覚意儀(壱岐国領主日高覚左衛門の子息)の代に当寺に安置することとなり、松浦藩の寄進を受けるようになったといいます。 |
御府内寺社備考による不動院の縁起 |
江戸大塚護持院末、浅草八軒寺町 阿遮山圓満寺不動院、境内拝領地五百二十一坪八分四厘 慶長十六年辛亥八月廿四日寺地拝領仕八丁堀二廿五ヶ年罷在候之処、御用地ニ付浅草新寺町ニ而替地(表三十二間裏江十六間)拝領仕候。 開山賢鏡、年代不相知八月晦日寂。 中興開基覚意儀は、肥前平戸之産ニ而壱岐国領主日高覚左衛門倅ニ御座候。 只今ニ松浦家ニ覚左衛門子孫家老を勤罷在候。 本堂、間口四間半奥行同 本尊金剛界大日如来、木座像長一尺九寸七分 弘法大師木像。 理現大師木像。 興教大師木像。 地蔵尊木像。 護摩堂、間口五間奥行三間。 拝殿、方一間半。 不動尊木像、長二尺一寸座像良弁僧都作。両童子、同作。 縁起左之通。 抑当寺不動尊ハ良弁僧正の御作なり。 良弁僧正と申ハ相模の国の産なりしか、御年はつか二才の時大鷲に取れ給ひぬ。 御母其鷲のあとをしたひ行て家に帰らす。 しかふして、三十余年過て御母淀河を渡られけるに、船中の人物語ていはく。 世の中に希有の事こそあれ、東大寺の良弁公年はつか三拾余なれと、学才人にすくれ帝の師となり給ふ。 むかし義渕僧正、鷲の稚児をつかみ来るを見給ひて、義渕ちかくより給へは、鷲ハ其稚児をすて置て飛さる。 義渕其子を取やしなひて、今良弁公となり玉ひぬ、といへり。 母公、此事を聞玉ふやいなや南都にゆきて、東大寺の僧に始終の事ともかたり給ひけるに、東大寺の僧、母公におしへていはく。 老母実に良弁公の母にておハすならハ、その事を簡にかきしるして路のかたはらに置、良弁公の通り給ふをまつへし、と。 母公其おしへにしたかひ簡を立て、路のかたはらに居給ふ。 時に良弁公春日の祠にもふて玉ふとて、輿の上より其簡を見給ひ、輿おりて其老母に子細を問ひ給へは、老母始終の事を具にのへ給へり。 良弁公一々きき玉ひて我師義渕の物語と今老母の言葉符節を合すかことし。 我つねに父母に逢奉らん事を願へとも、其手たてなくてむなしく年月を送りぬ。 今たまゝ達てよろこひにたえす、然れとも我母といへる何そしるしもかなとのたまへハ、母公のいはく、我むかし子なかりけれハ、観音にいのりて公をうミ侍る。 しかしより壱寸一分の観音の像を我子の頚にかけさせり、鷲のつかミし時観音の像かけて有しか、公の稚きとき其像有しやいなやと。 良弁公是をきゝてなきむせひて、我七歳のときわか師の義渕僧正、観音の小像をあたへ給ひていはく。 我汝を得し時此観音汝か頚にかけてあり、恐らく汝か父母是を付るならん。 汝父母をしらす定てかなしく思ふらめ此観音を父母とおもひミよ、とて渡されける。 我それよりしはしもミをはなたすとて、たもとより像を出し給へハ、母公是を見てこれこそ公かををなき時頚につけまいらせる尊像なり、まことに我子にてましますよ、とてなミたもせきあへす。 良弁公実の母なる事をしり給ひ、母公をともなひ帰りて寺のわきに家して哺育したまふなり。 其後良弁公おもひ給ふハ、母子久しくて相逢多年母子たかひにこかれもたへし、別て母のうきかんなんをおもひめくらせハたとふるに物なし。 あはれ末代にも品こそかはれかく浅ましき親子別離のなけきまゝあるへし。 某かなしミなからんやうにとて、大誓、念深くもなをふかくありて、此不動尊を彫刻し給ふそ恭き。 ある人良弁公に問ていはく。 公の母観音にいのりて公をうミ給ふに、何ぞ不動尊を彫刻し給ふ。 といひけれハ、良弁僧正答て云。仏に悲智の二徳あり。 しかふして観音ハ慈悲を先とし、不動ハ智恵を先とす。 悲智いつれおろかはなけれとも、仏の利生方便智恵にあらされハ成セす。末世の衆生魔障のなやミ多し、不動尊あらすんハ障礙をはらふことあたはす。 しかれハ極て不動尊末代に利益多きことを思ふのミ、いはんや一切衆生を一子の如く愛すとの本誓あるをやと云云。 聖天鋼像、長三寸五分。 本地十一両観音、木立像長一尺五寸。 肥前国安満嶽に安置御座候処、霊験有て備相等不自由ニ付、鳥越松浦肥前守屋敷江安置ニ而御座候。 其後元禄中松浦鎮信公思召を以て当院江祈祷処引移され覚意江住職被申付。 坊舎再建被致、扶持方二百石被下候所、宥略に相成其後十人扶持只今もつて被下候。 大神宮木立像。 弁財天木像。 大黒木像。 毘沙門木像。 摩利支天木像。 大黒天木像、一体三身長一尺九寸五分謁摩作。 大黒天木像、長三寸七分弘法大師作。 千手観音木像長二寸八分。 愛染明王、長二寸八分弘法大師作。 鎮守社、三尺四方。 金毘羅、保呂輪権現、稲荷大明神。 宝筐印塔、高一尺七寸 以上乙酉書上 阿含山不動院、真言護持院末八軒寺町。 開山賢鏡法印、中興栄実法印。江戸志 旧浅草にあり明暦中此地に移る。江戸図説 起立来暦詳ならす。 慶長十六亥八月廿四日、江戸八丁堀に寺地を賜り、夫より廿五年をへて寛永十二年乙亥其地を収公せられ、今の所を賜り小坊を建不動を安す。爰ニ肥前国平戸の城主松浦家の領内に良弁僧都の作の不動又歓喜天の像往古より安置せる所、嶋原退治の時、霊験掲焉に依て信仰浅からす。今の浅草鳥越の屋敷に安せしか又奇瑞度々あるにより、汚穢の地に置障あらん事を恐れ、元禄年中一宇を建立し走に移さんの発願にて彼是沙汰せしか、今の不動院破壊せる小宇にて名のみなるにより其上この屋敷より鬼門に当り殊に密宗なれハとて、こゝに国家安鎮の為堂塔を建立弐百石寄附両尊を安置し、もとの像を前立とし第五世覚意といへるを住持とし祈念怠慢なかりき。 此覚意ハ松浦外記(今の家老)の子たれハ、幸に護持なさしむとそ、其後寄附の石高も多く減しけるとなり去れとも今に松浦家の祈願所なりと。 改撰江戸志(御府内寺社備考より) |
通称、浅草寿不動尊(あさくさことぶきふどうそん)。 創建年代等は不詳。 江戸時代初期の慶長十六年(1611)に八丁堀へ寺地を拝領して創建され、本堂に本尊・大日如来、護摩堂に不動尊を安置していました。 寛永十二年(1635)には浅草寺の裏鬼門として、この地に移転され現在に至っています。 本尊の不動明王は、東大寺初代別当の良弁僧正(ろうべんそうじょう)が母親との再会の喜びと親子の大切さを思いながら作られたもので「子守り不動」と呼ばれています。 この不動明王は、平戸藩松浦家に守護仏として奉られていましたが、浅草寿不動尊が平戸藩松浦家江戸上屋敷の鬼門の位置にあることから松浦家の祈願所と定め、元禄十年(1697)浅草寿不動尊に寄進・安置されました。 この時から、良弁僧正作の不動明王が本尊となり、以前の本尊は御前立てとなりました。 (散歩日和より) |