関東三十六不動霊場
東京深川鎮座 富岡八幡宮

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平成廿三年八月四日

4日 東京大手町    最高気温  31.1℃   最低気温   24.3℃ 晴れ時々曇り

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主祭神
 応神天皇(八幡神)
相殿神
 神功皇后
 仁徳天皇
 天照皇大神
 常磐社神
 武内宿祢命
 日本武尊
 天児屋根命
 竈大神


富岡八幡宮の由緒
富岡八幡宮は、永代寺の長盛法印が寛永4年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に創建したといいます。

「江東区の民俗深川編」による富岡八幡宮の由緒
すでに七〇歳を過ぎていた長盛法印は寛永元年(1624)のころ、ある夜、夢中に託宣があり、「われ永代島に鎮座あるへし」とあり、数度霊夢があり、長盛は一社の宮をたて、八幡宮を勧請し、寛永八年(1631)のころにようやく再興の本意をとげた。
ご神体は菅原道真の御作で、源頼政が崇敬し、その後、いくつかの武家を経て、太田道灌も崇敬し、下総国にあったものがご神体という(『江戸名所記』)。
また、別の説では、長盛法印には先祖伝来の弘法大師作の八幡大菩薩像があり、常に信敬し、この像が「汝等こそ我を信ずることいとまめやかなり、されば土地の良縁あれば、心を起こして東行を企つべし、必ず汝が願望を成せん、我も伴いてかしこに至り国家を守り蒼生を益すべし。
而して武蔵国に永代島というあり、わが寓居えんところには白羽の矢たちたらん」 との夢告をし、長盛は八幡像を携えて、この地に着き、土地の者に案内させ探すと、葦の間に小飼があり、中には白羽の矢が一本納められていた。
長盛はここが霊示の地として、八幡宮を勧請して社殿を造営し、富岡八幡宮の新年開運白羽の矢(吉事あたり矢・凶事はらい矢)はこの緑によるという(『富岡八幡宮縁起』)。
天和二年(1682)の火事後、貞享二年(1685)、再建された永代寺の客殿に一六、七の児童が現れ、「我寺者一度焼失仕候ニ如元之在候、如何なる御事そと。
再三尋申候へハ、太子御笑含、今度之地形所をハ富賀岡と名付よと被仰候」といわれ、富岡の称は貞享二年(1685)八月三日永代寺四世周光の夢に聖徳太子より口授されたものであるという。
なお、周光は高野山で修行し、慶安四年(1651)に永代寺に入り、中興開山と伝えられている(『御府内備考続編』)。
明治にはいると永代寺一六世周徹は還俗して神社名より富岡を名乗り、八幡宮の神官となる。
富岡の名称をもたらした聖徳太子社は幾度の災難後も境内に祀られている。
                            (「江東区の民俗深川編」より)
歴史
創建
寛永4年(1627)、菅原道真公の末裔といわれる長盛法印が神託により、当時永代島にと呼ばれた小島に創祀したのが始まりとされる。
当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
また八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。
広く美麗な庭園は人気の名所であったという。
なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。
当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された。

明治・大正
明治維新後の社格は、准勅祭社とされ、同制度の廃止後は記載がない府社とされたが、皇室の尊崇を受け続けた。
永代寺については、神仏分離令によって廃寺。
現在の永代寺は、明治29年(1896)に旧永代寺の塔頭・吉祥院が名前を引き継いだものである。

昭和以降
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失。
同年3月18日に、空襲罹災地巡幸のため、昭和天皇が境内を訪れた。
その後、第18代宮司の富岡盛彦は再建に努め、昭和31年(1956)に現在の社殿が造営される。
盛彦は後に神社本庁の事務総長(現在の総長)にもなり、神道の復興に努めた。


 富岡八幡宮の例祭は8月15日を中心に行われます。
俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。三年に一度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御する様は「深川八幡祭り」ならではのものです。
また、富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる総金張りの宮神輿が三基ありました。しかし関東大震災で惜しくも焼失、それから68年の時を経て平成3年に日本―の黄金大神輿が奉納され宮神輿が復活しました。 しかしながら、その大きさゆえに毎年担ぐことがかなわない為、新たに宮神輿を製作し、二の宮として平成9年の例大祭で華麗に渡御しました。
一の宮 二の宮
 深川のお祭りは「ワッショイ、ワッシヨイ」の伝統的な掛け声と「水掛け祭」の別名通り、沿道の観衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられ、担ぎ手と観衆が一体となって盛り上がるのが特徴で江戸の粋を今に伝えるお祭りとして、多くの人々によって大切に受け継がれています。 
                                      (富岡八幡宮ホームページより)


          
富ヶ岡 八幡宮

◆天皇皇后両陛下 行幸啓記念碑

平成24年8月12日、天皇皇后両陛下は
富岡八幡宮にご参拝された記念碑です。

記念碑には東北復興の思いも込められており、
記念碑は宮城県石巻市産出の仙台石、

台石には福島県いわき市産出の櫻御影石が
使用されているとのことです。

東陽二七加會 下木場下木會

大関力士碑

巨人力士身長碑
        
           大関力士碑
当宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、
明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士
碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されま
したが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰
し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには
入らなかった看板大関を除きます)昭和五十
八年に建てられた碑で、九代目市川団十郎と
五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台
石を利用しています。



伊能忠敬銅像

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に
成功したあと五0歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒
江町(現在門前仲町一丁目)に隠宅を構えていまし
た。
約二00年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では
一八00年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷
地(北海道)測量の旅に出かけました。
忠敬先生はこのときを含めて全部で一0回の測量を
企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発
の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣
して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開
始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量に
とってたいへん御縁の深い場所であります。


寛政一二年(一八00年)
閏四月一九日(陽暦六月一一日)
五五歳の伊能忠敬は、この地から
全国測量の旅に出発しました。

富岡八幡宮御本社神輿
(日本一の大神輿)
○当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった
紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み
八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の
神輿が奉納され、みこし深川と云われて参りま
したが大正十二年の関東大震災で惜しくもその
全てを焼失してしまいました。それ以来、御本社
神輿の復活は深川っ子の念願でありましたが、
平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣ら
ない豪華な大神輿が復活致しました。

○型
の名称  屋根延神社型金地塗神輿
○台 輪 幅   五  尺
○高  さ   十四尺五寸
○重  量   四・五トン(渡御時における推定)
○屋根の大きさ 最大幅十尺(蕨手装着時)
○担ぎ棒
   十本(本棒二本縦添棒四本横添棒四本)
●ダイヤモンド
  鳳凰の目 (四カラット二個)
  凰の火焔(七カラット)
  狛犬の目 (三カラット二個、一対)
  隅木の目 (一カラット二個、四体)
  小鳥の目 (一カラット二個、四体)
●ルビー 鳳凰の鶏冠(二0一0個)

  

富岡八幡宮 本殿


扁額「萬世泰平」


天皇陛下御野立所

昭和二十年三月十八日
戦災地御巡行ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ
東京都
昭和二十年三月十八日
戦災地御巡行ノ際
玉歩シ此處ニ駐ノサセ給フ
東京都

昭和天皇 救国のご決断と富岡八幡宮
 
昭和19(1944)年11月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。
昭和天皇はこの年10月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は3月10日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。
軍は天皇の抗戦のご決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、3月18日日曜日午前9時から1時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、
天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると。大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。
粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況のご説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が8月15日に終結伊した。
8月15日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

 富岡八幡宮友の会一同
 加瀬英明



お手水所
谷川の清き流れをいまここに
見るここちして口すすぐなり
この水盤の石は四国の霊峯石鎚山に源を発する加茂川より
採取せるもので世に伊予の青石といわれる名石であります。
又、水除け石は伊豆長岡の六万石、犬走りは常陸の丹波石が
用いられています。すべて山下太郎氏の奉納によるものであります。
昭和三十九年十一月

鳥居
鹿島神社  大島神社
大黒宮  恵比須宮
冨士淺間神社  金刀比羅神社
清澄通り 永代通り 永代通り
門前仲町駅 両国経由都庁前行 12:50 月島  門前仲町  清澄白河 →
ホームドア 門前仲町 12時50分電車が入って来ました。