関東三十六不動霊場
関東三十六不動霊場
第十八番 泰叡山 護国院 瀧泉寺
目黒不動尊

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平成廿三年七月廿四日


24日 東京大手町    最高気温  30.3℃   最低気温   22.7℃ 曇り時々晴

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泰叡山 護国院 瀧泉寺

目黒不動尊

利車毘(りしゃび)童子

天台宗

御詠歌

清らけき

目黒の杜の

独鈷滝

災厄難を

除ける不動尊

御朱印 御影 利車毘(りしゃび)童子


目黒不動尊


ご由緒
瀧泉寺(目黒不動尊)
天台宗泰叡山瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ 以後幕府の厚い保護を受けました。
また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄 ・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。
さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中の感応寺と並んで「江戸の三富」と称されました。
境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
その他、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。
                             平成21年3月 目黒区教育委員会


目黒不動瀧泉寺の概要
天台宗寺院の目黒不動瀧泉寺は、泰叡山と号します。
瀧泉寺は大同3年(808)に慈覚大師が開創したと伝えられ、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて 日本三大不動の一つに上げられます。
江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の保護を受け、江戸五色不動の目黒不動、江戸の三富(当寺と、湯島天神、谷中感應寺[現天王寺])の一つに数えられたといいます。

目黒不動瀧泉寺の縁起
目黒不動瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したと伝えられています。
関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、成田山新勝寺の成田不動尊と併せて 日本三大不動の一つに上げられます。
江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の保護を受け、江戸五色不動の目黒不動、江戸の三富(当寺と、湯島天神、谷中感應寺(現天王寺)の一つに数えられたといいます。

天台宗泰叡山護国院瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。
また、江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。
さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中感応寺(現天王寺)と並んで「江戸の三富」と称されました。
境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
その昔、境内には「銅造役の行者倚像」、「銅造大日如来坐像」(ともに区指定文化財)があり、仁王門左手の池近くには「山手七福神」の一つの恵比寿神が祀られています。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知られる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。                                                   
                               (目黒区教育委員会)


青木昆陽墓(国指定史跡昭和18年5月1日指定)
江戸中期の儒者。
通称は文蔵。
元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。
幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭貨幣考」「和蘭語訳」などを著述する。
また「蕃薯考」を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために”甘藷先生”と呼ばれた。
一方幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。
明和6
年(1769)歿。行年72歳

瀧泉寺前不動堂附扁額一面(東京都指定文化財昭和41年3月31日指定)
「江戸名所図会」天璣之部、目黒不動堂の条に、現位置附近に「前不動」として図示されている。
扁額「前不動堂」には「佐玄竜書」の署名があるが、筆者佐々木玄龍は通称万次郎、池庵を号する。
慶安3年(1650)江戸に生まれ、書風一家をなし、享保7年(1722)歿した。この扁額は堂建立当時のものと思われる。
瀧泉寺本堂前石階の下、独鈷滝の左の崖下にあり、内には本尊木造不動明王立像などを安置し庶民信仰の便を計ったものと思われ、江戸時代中期の仏堂建築として比較的よく旧規を保っている。


瀧泉寺勢至堂(目黒区指定文化財昭和59年3月31日指定)
瀧泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。
建築各部にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存しており、その姿に寛永中興期の瀧泉寺の面影を残しています。
向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立からそれほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。
現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。
今では南斜面の緑の中に溶け込み、瀧泉寺境内の優れた景観を形成しています。


銅造大日如来坐像(目黒区指定文化財昭和59年3月31日指定)
蓮華座に結枷趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躰、両腕、膝等十数ヶ所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。
総高385cm、座高281.5cm、頭長は121cmで、体躰にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色であり、面相も体躰も衣文表現もよく整っています。
現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の目黒不動堂の挿図より、江戸時代には堂舎の中にあったことがわかります。
台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧侶の歴史が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による造像だったことがうかがえます。
また、刻銘から制作年の天和3年(1683)と制作者が江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。

青木昆陽(あおきこんよう)は、江戸時代中期の儒学者、蘭学者です。
名は敦書あつのり、通称は文蔵。
京都の儒学者伊藤東涯(いとうとうがい)に学び、幕府に仕えました。
1732年に近畿以西を襲った享保(きょうほう)の飢饉の後『蕃薯考(ばんしょこう)』を著し、
薩摩から種イモを取り寄せて各地に配布し栽培方法を教え、
甘藷(かんしょ(サツマイモ)が関東一円に広がるきっかけをつくりました。
繁殖能力が高くやせ地でも育ち、初心者でも育てやすい甘藷(かんしょ)は、
飢饉対策として全国で栽培されるようになり、
昆陽(こんよう)は人々から甘藷先生(かんしょせんせい)と称せられました。
昆陽(こんよう)の遺徳を偲び、毎年10月28日に「甘藷(かんしょ)まつり」が催されます。




江戸市中の人々にとっては、「目黒不動尊」は信仰の対象であり、
行楽を兼ねて参拝に訪れる人で、門前は大いに賑わっていた。



江戸名所図会や、浮世絵にもその賑わいぶりが偲ばれる。 

(目黒不動尊の狛犬 目黒不動江戸の賑わいより)  


                                                                                                            
等々力駅から東急大井町線で大岡山駅まで行き、乗り換えます。
大岡山駅で東急目黒線に乗り換え、不動前駅で降りました。
らかんさんのお寺 五百羅漢寺 目黒不動尊 ブロック塀に沿って歩きます。
仁王門 扁額「泰叡山」 目黒不動尊 瀧泉寺
境内 南無阿弥陀仏
    天台宗 大本山 目黒不動尊別當 瀧泉寺本坊       唐破風の玄関               阿弥陀堂
唐破風 地蔵堂
観音堂 鬼瓦 

結願札所
ご詠歌
身と心願いみちたる不動滝
目黒の杜におわす観音


聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所

第三十三番霊場
火消しの第一区は中央区の辺りにあたる。筒先中は名前のとおり注水ホース先を担う放水係で階級としては三役のすぐ下になる。
階段を上がると本堂です。
大日如来
慈眼視衆生
微笑観世音菩薩
慈航普度
愛染明王


木造愛染明王坐像 東京国立博物館蔵、鎌倉時代、重要文化財

愛染明王(あいぜんみょうおう、: rāgarāja

日本密教の愛染明王は、『金剛頂経』類に属するとされる漢訳密教経典の『瑜祇経』に由来し、
この経典は正式名称を『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』といい、
同経典の「愛染王品第五」に愛染明王が説かれている。
その修法は、息災・増益・敬愛・降伏の『四種法』の利益をもって記述され、
その功徳は、「能滅無量罪 能生無量福」(よく無量の罪を滅して、
よく無量の福を生じる)とも説かれている。


愛染明王と不動明王

日本では、この不動明王と愛染明王の両尊を祀る形式が
1338年頃に成立した文観の『三尊合行秘次第』に始まるとする説がある。
この説に基づくならば、現在、広島県にある明王院(福山市)は、
大同2年(807年)に空海が開基したと伝えているが、
この寺の境内にある五重塔(国宝)は貞和4年(1348年)に建立され、
初層に大日如来を本尊として左右に不動明王と愛染明王を祀っているので、
日本におけるその初期の例として挙げることが出来る。
ただ、文観自身はこの書を書写したとしており、
密教の事相上では『三尊合行秘次第』の本尊となる如意宝珠は特殊な形をしていて
「密観宝珠」とも呼ばれ、如意宝珠形の下に五鈷杵を配した舎利塔に
仏舎利を入れたものであるところから、これを如意輪観音の三昧耶形であるとして、
空海の直弟子に当る観心寺の檜尾僧都実恵や、
醍醐寺の開祖理源大師聖宝の口伝にまで遡ろうとする考え方もある。

ちなみに、高野山には空海の請来になる品物を保管している「瑜祇塔」という建造物がある。
この名は、愛染明王と同じく『瑜祇経』を典拠としているが、
その正式名称は「金剛峯楼閣瑜祇塔」で、
高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の呼び名は、この「瑜祇塔」に由来する。

尊容と信仰

愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相であり、頭には獅子の冠をかぶり、
宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、大変特徴ある姿をしている。
その身色は真紅であり、後背に日輪を背負って表現されることが多い。

また、『瑜祇経』第五品に記される偈頌(げしゅ)である「衆星の光を射るが如し」の部分を再現した
天に向かって弓を引く容姿で描かれた姿の高野山金剛峯寺に伝えられる「天弓愛染明王像」や、
京都府木津川市山城町の神童寺像、山梨県甲州市塩山の放光寺像などがあり、
更には、日蓮筆と伝える「愛染不動感見記」の馬に乘る八臂像や、
両頭など異形の容姿で描かれた図像も現存する。

愛染明王信仰は「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われており、
また「愛染=藍染」と解釈し、染物・織物職人の守護仏としても信仰されている。
さらに愛欲を否定しないことから、古くは遊女、現在では水商売の女性の信仰対象にもなっている。

日蓮系各派の本尊(曼荼羅)にも不動明王と相対して愛染明王が書かれているが、
空海によって伝えられた密教の尊格であることから日蓮以来代々梵字で書かれている。
なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、
これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。

軍神としての愛染明王への信仰から直江兼続は兜に愛の文字をあしらったとも考えられている。

愛染明王の功徳

本誓と功徳

いわゆる愛染明王の姿の特徴は、一面三目・六臂で、頭上には獅子の冠を頂き、
冠の上には五鈷鉤が突き出ていて、
その身は赤色で宝瓶の上にある紅蓮の蓮華座に、日輪を背にして座っている。
これらの相が示すその象徴的な意味は以下のようになる。

燃え盛る日輪を「織盛日輪」と言い、日輪は仏のもつ無上の浄菩提心を表し、
燃え盛る炎は智火が煩悩に基づく執着や愛欲をことごとく焼き尽くし、

その「愛染三昧」の禅定が不退転となる仏の勇猛心であることを表している。
頭上に獅子の冠を頂き、髪の毛を逆立てて怒髪天を突くさまを表すのは、

百獣の王である獅子が吼えるとあらゆる猛獣もすぐに静かになる譬えのように、
憤怒の怒りの相と獅子吼によって諸々の怨敵を降伏して、一切衆生を救済することを表している。
冠の上に五鈷鉤が突き出ているのは、衆生の本有(ほんぬ)の五智を呼び覚まして、

邪欲を捨てさせて正しい方向へと導くことを意味し、
愛染明王の大愛が衆生の心に染み入り、
仏法の真実を体得せしめることを表している。

一面三目で身体が赤色であり、その身を五色の華鬘で荘厳する点は、
三つの眼は法身と般若と解脱を意味し、世俗面においては仁愛と知恵と勇気の三つの徳を表す。
身体が赤く輝いているのは、愛染明王の大愛と大慈悲とがその身体からあふれ出ていることを意味し、
五色の華鬘でその身を荘厳するのは、

五智如来の持つ大悲の徳を愛染明王もまたその身に兼ね備えていることを意味し、
両耳の横から伸びる天帯>は、
「王三昧」に安住して如来の大法である真理の教えを聞くことを表している。

六臂として手が六本あるのは、六道輪廻の衆生を救う意味をもつ。

また、左右の第一手は二つで「息災」を表していて、

左手の五鈷鈴は、般若の智恵の音と響きにより衆生を驚愕させて、
夢の如きこの世の迷いから覚醒させることを表し、
右手の五鈷杵は、衆生に本有の五智を理解し体得させて、
愛染明王の覚りへと到達せしめることを表している。
左右の第二手は二つで「敬愛」と「融和」とを表していて、
左手の弓と右手の矢(箭)は、二つで一つの働きをするので、

この世の人々が互いに協力して敬愛と和合の精神を重んじ、
仏の教えを実践する菩薩としての円満な境地に至ることを意味している。
また、愛染明王の弓矢は、大悲の矢によって衆生の心にある差別や憎しみの種を射落とし、
菩提心に安住せしめることを意味し、そして矢は放たれるとすぐに目標に到達することから、

愛染明王への降魔や除災、男女の縁結びにおける祈念の効果が早く現れることをも表している。
左右の第三手は二つで人生の迷いや煩悩による苦しみの世界を打ち払う「増益」と「降伏」とを表していて、
左手に拳を握るのは、その手の中に摩尼宝珠を隠し持っていて、
これは衆生が求めるあらゆる宝と財産や、生命を育むことを意味していて、

右手の赤い未敷蓮華(みふれんげ)は、それらの衆生の財産や生命を奪おうとする「四魔」に対して、
大悲の鞭を打ち振るい、魔を調伏することを表している。
愛染明王が座っている紅蓮の蓮華座は、

「愛染三昧」の瞑想から生じる大愛の境地を実現させた密教的な極楽浄土を意味していて、
その下にある宝瓶は、仏法の無限の宝である三宝を醸し、 経と律と論の三蔵を蔵することを表している。
また、その周囲に宝珠や花弁が乱舞するのは、
愛染明王が三宝の無尽蔵の福徳を有することを
意味している。


        愛染明王十二大願

更に、愛染明王は一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされ、
その内容は以下のようになる。

  1. 智慧の弓と方便の矢を以って、衆生に愛と尊敬の心を与えて、幸運を授ける。
  2. 悪しき心を加持して善因へと転換し、衆生に善果を得せしめる。
  3. 貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩を打ち砕いて、心を浄化し、浄信(菩提心)を起こさしめる。
  4. 衆生の諸々の邪まな心や、驕慢の心を離れさせて、「正見」へと向かわせる。
  5. 他人との争いごとの悪縁を断じて、安穏に暮らせるようにする。
  6. 諸々の病苦や、天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせる。
  7. 貧困や飢餓の苦悩を取り除いて、無量の福徳を与える。
  8. 悪魔や鬼神・邪神による苦しみや、厄(やく)を払って、安楽に暮らせるようにする。
  9. 子孫の繁栄と、家運の上昇、信心する人の一家を守って、幸福の縁をもたらす。
  10. 前世の悪業(カルマ)の報いを浄化するだけでなく、信心する人を死後に極楽へ往生させる。
  11. 女性に善き愛を与えて良い縁を結び、結婚後は善根となる子供を授ける。
  12. 女性の出産の苦しみを和らげ、その子のために信心すれば、子供には福徳と愛嬌を授ける。
                                 (Wikipediaより)

種字

ウーン (hűṃ、हूं)


ウン(hhuṃ)


真言

  • おん まからぎゃ ばぞろうしゅにしゃ ばざらさとば じゃく うん ばん こく

 甘藷先生墓所 青木昆陽墓  史跡 青木昆陽墓
甘藷先生生誕三百年報恩塔 甘藷先生墓

青木昆陽の遺言のなかに次の一文があります。

我等死去いたし候ハヾ目黒へ葬り可申候 
勿論軽ク葬り可申候 
我等存生之間彫り申候石塔ヲ建可申候 
外二碑銘杯建申間敷候 
我等何之功徳無之二碑銘ヲ建ハ甚恥手事二候

つまり、死んだ場合は目黒に埋葬し、
生前に彫った石塔だけを建てることと言い残しました。
そのため、青木昆陽の下屋敷の南にあたる地に
お墓が建てられました。
お墓の表面にある「甘藷先生墓」の文字は
青木昆陽が生前自ら刻んだものです。
お墓の向かって左面に青木昆陽が自ら「甘藷先生之墓」と
刻んだ壽塚(せいぜん建てた墓)を
作ったと刻まれています。

昆陽(こんよう)の遺徳を偲び、
毎年10月28日に「甘藷(かんしょ)まつり」が催されます。

青木昆陽(あおきこんよう)は、江戸時代中期の儒学者、蘭学者です。
名は敦書(あつのり)、通称は文蔵。
京都の儒学者伊藤東涯(いとうとうがい)に学び、幕府に仕えました。
1732年に近畿以西を襲った享保(きょうほう)の飢饉の後
『蕃薯考(ばんしょこう)』を著し、
薩摩から種イモを取り寄せて各地に配布し栽培方法を教え、
甘藷(かんしょ)(サツマイモ)が
関東一円に広がるきっかけをつくりました。
繁殖能力が高くやせ地でも育ち、
初心者でも育てやすい甘藷(かんしょ)は、
飢饉対策として全国で栽培されるようになり、
昆陽(こんよう)は人々から
甘藷先生(かんしょせんせい)と称せられました。


青木昆陽のお墓の向かって左脇に
「誠心孺人(じゅじん)墓」と書かれたお墓があります。
これは青木昆陽の妻「住(すみ)」のお墓です。
住(すみ)の法名は「自光院殿照誉智鏡誠心大姉」です。

                    (目黒区文化財より)

「享保二十年 青木敦書蒙命種甘藷 因人呼予曰甘藷先生 
甘藷流傳 使天下無饑人 是予願也 
今作壽塚 書石曰甘藷 先生墓」とある。
右側には、「君諱敦書.........明和六年巳丑十月二日終......」とあるから、
これは没後に刻したものと思われる。
昆陽は元禄十一年に生まれ七十 二歳で歿した。
                        (江戸・東京の碑を歩くより)

享保二十年
 青木敦書
 
 
 
史跡 昭和十八年三月一日文化財保護委員会指定    甘藷先生 墓所ノ改修工事ニ際シ
   先生ノ遺言ニヨリ
   御尊父半右衛門ノ霊ヲココニ供養ス
南無延命地蔵菩薩          子守延命地蔵尊 鐘楼
目黒不動尊 開山一千二百年記念 不動明王の眷属として恭敬礼拝する者を影の形に随うが如く守り
衆生救済に活躍する童子たちである

・慧喜童子 ・指德童子 ・烏倶婆誐童子 ・矜迦羅童子
 ・不動明王
・阿耨達多童子 ・制託迦童子 
・慧光童子 ・清浄童子
階段を降ります 奉納 唐銅役行者 唐銅役行者像
     銅造役の行者倚像
               区指定文化財 (昭和59年3月31日指定)
                             下目黒3-20-26
 役行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、
修験道の祖として崇拝されている人物です。
この像は寛政8年(1796)の作で、
総高142.2㎝、座高92.7㎝です。
やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、
法衣や袈裟の表文のしわなどもとても巧みで
江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。
表面は黒光りしており、これは鋳工の間で
カラス銅と称される銅色です。
 頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、
左手には巻子を持っています。
 また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、
神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることが
わかります。
                              平成21年3月
                           目黒区教育委員会

           
鷹居の松跡  (たかすえ)
                                            下目黒3-20-26
 江戸幕府3代将軍徳川家光が寛永(1624~1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹が
行方不明になりました。
家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に
飛び戻ってきました。
このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。
 これ以後、家光は不動尊を深く信仰するようになり、火災によって焼失していた目黒不動尊の堂塔を
次々と再建させ、寛永11年(1634)には諸堂末寺等を併せて50余棟に及ぶ壮大な堂塔伽藍が
完成したといいます。
 幕府の保護を受けて以来、歴代将軍が目黒不動尊へ参詣するようになると江戸庶民にも
不動信仰が広がり、目黒不動尊は江戸近郊の有名な行楽地の一つとなり大変にぎわいました。
 尚、現在の松は「鷹居の松」の話から何代か後のものになります。
                                                 平成21年3月
                                              目黒区教育委員会

中押渡 独鈷の瀧 聖願鉢
梵字 不動明王 水掛け不動 目黒不動尊別當 泰叡山瀧泉寺 
垢離堂
独鈷の滝  滝泉寺前不動堂  都重宝 滝泉寺前不動堂
前不動       この扁額には「佐玄龍書」の署名があり、堂建立当時のものと推測されています。
狛犬は和犬型である。天台宗である“目黒不動尊”に和犬型狛犬はとても珍しい。文久2年(1862年)1月生まれで子連れである
前不動 仁王門 目黒不動尊 瀧泉寺
仁王門の裏手にいる石膏製の狛犬は、昭和53年(1978年)7月生まれである。
京都の「龍神社」にある狛犬を原型に制作され、この狛犬をもとに「靖國神社」の狛犬が制作されている。
「八つ目や うなぎ にしむら」は長蛇の列なので諦め、後日訪れていただきました。 商店街です。
不動前駅通り商店街 不動前駅 駅で見かけたにしむらの看板
東京メトロ南北線は浦和美園まで行きます。   17時38分電車が入って来ました。 18時15分 王子駅に着きました。
JR王子駅で京浜東北線に乗り換え、 赤羽駅で高崎線に乗り家路につきました。