関東三十六不動第十六番霊場 竹園山 教学院 最勝寺 目青不動尊 阿婆羅底童子
関東三十六不動霊場
十六番霊場 竹園山 教学院 最勝寺 
目青不動尊

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平成廿三年七月廿四日


24日 東京大手町    最高気温  30.3℃   最低気温   22.7℃ 曇り時々晴

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竹園山 教学院 最勝寺

目青不動尊

阿婆羅底(あばらち)童子

天台宗


御詠歌

新たなり

浮世に苦しむ

諸人は

助け給える

目青不動尊

御朱印 御影 阿婆羅底(あばらち)童子


教学院の概要

天台宗寺院の教学院は、竹園山最勝寺と号します。
教学院は、慶長9年(1604)玄応大和尚が江戸城内紅葉山に創建、後赤坂三分坂、継いで青山南町4丁目へ移転、当地へは明治41年に移転したといいます。
貞享4年(1687)には相州小田原城主大久保加賀守の菩提寺となっており、明治維新後、廃寺となった観行寺から江戸五色不動の目青不動を移したことから、青山のお閻魔さまとも称されたといいます。
江戸五色不動の目青不動を閻王殿に祀っており、関東三十六不動16番、東京三十三観音霊場10番札所となっています。


教学院の縁起

教学院は、慶長9年(1604)玄応大和尚が江戸城内紅葉山に創建、後赤坂三分坂、継いで青山南町4丁目へ移転、当地へは明治41年に移転したといいます。
貞享4年(1687)には相州小田原城主大久保加賀守の菩提寺となっており、明治維新後、廃寺となった観行寺から江戸五色不動の目青不動を移したことから、青山のお閻魔さまとも称されたといいます。


せたがや社寺と史跡による教学院の縁起

教学院は竹園山教学院最勝寺という。
慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。
更に寛永8年(1631)、第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4丁目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失い、その間の詳しいことは明らかではない。
元禄年間までは、麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守の菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。
後に大寺の格式となり、比叡山延暦寺の末寺となった。
明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に、太子堂町の現在地に移転した。
本堂に恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している。
別堂には不動明王像を安置してあり、これが目青不動尊である。
これは目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動と共に江戸五色不動の一つとして有名である。
この像はもと麻布の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったので、明治15年青山南町4丁目にあった教学院に移され、青山のお閻魔さまといわれていた。
この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれる。
なお、この像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。
著名墳墓
小田原大久保家歴代の墓
(特に二宮尊徳と関係のあった大久保忠真(法名彰道院殿)の墓)
岡本秋暉の墓
渡辺華山の門人で、花鳥画に一機軸を出した南画家。
岡本碧巌の墓
秋暉の長男。
名を隆徳といい、碧巌と号した。
有名な明治の大書家で、皇居前の楠公の銅像の墓石碑文を書いている。
                                   (せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による教学院の縁起

竹園山最勝寺教学院(天台宗)
本寺は慶長9年(1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたという。
後、明治41年(1908)青山からこの地にうつされた。
本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられる。
また、不動堂の目青不動は東都五色不動の一つとして有名である。
境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓、南画家岡本秋暉、その子初夏岡本碧巌等名家の墓がある。
                    (世田谷区教育委員会掲示より)


東京名所図会による教学院の縁起

竹園山
教學院、竹園山と號す、天台宗、城琳寺末、青山南町四丁目二三、四番地に跨がる、住職は林寛葆師なり。
江戸砂子に云、竹園山教學院、城琳寺末、青山、心見観音、聖徳太子の作、名ある糸さくらあり。
江戸名所図會、熊野権現社の次條に、心見観音、同北に隣る天台宗にして竹園山教學院と號す、本尊は聖徳太子の真作といふ新編江戸志に云、開山法印岸能。
黒板塀、素木の扉門、青山通に面す、門内石を甃み、本堂は左にあり、瓦葺、桁行四間、梁間四間半、堂前階下に唐銅の弥陀露佛を置く。
又閻王殿あり、寶形造は向拝に鰐口を掲ぐ、門内正面なり、不動明王及び元三大師を配す、本堂と閻王殿の間北向に庫裡の玄關あり。
境内の閼伽井清く、梅櫻松樫、銀杏、百日紅の栽込、石燈籠兩三基、安排せらるるあり。
子爵大久保家(舊相模萩野山中藩主)累代の菩提所なり。
古畑玉函の墓。
古畑玉函先生の墓は、教學院にあり、銘は田口克が撰む所にして左の如く刻む。
                       (東京名所図会より)



目青不動尊 閻魔大王
                                  
12時16分東京メトロ丸ノ内線中野坂上駅に電車が入って来ました。 新宿でJR線に乗り換えます。
節電中のステッカーが貼ってあります。 渋谷駅で降りました。
お腹が空いていましたので魚力でお寿司を食べ、東急田園都市線に乗り換えました。
三軒茶屋駅で降りました。 駅前の地図で太子堂4丁目にあるのを確かめてから歩き始めました。

地名の由来

江戸中期以降、社寺参詣ブームで賑わった大山道と登戸道の分岐(追分)付近に
信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋が並んでいたことに由来する。
この呼び名は文化文政の時代には既に一般的なものとなっていたようである。

大山道(大山街道)は、現在のほぼ国道246号に当たり、瀬田、二子橋を渡り大山へ向かう。
登戸道は、井伊家知行地の世田谷代官屋敷(現在の世田谷区世田谷、ボロ市通り沿い)や
世田谷の上町(武家町)を通って登戸に向かう街道筋であり、現在の世田谷通りに当たる。(Wikipediaより)


「大山」への参道の分岐点にあって、
三軒の茶屋(上から角屋、石橋屋、田中屋)が並び商いをした様子が伝えられます。(asahi netより)


玉川通りと世田谷通りの分岐点に、大山道の道標が建てられている。 
この道標は寛延2年(1749)に建立され、文化9年(1812)に再建されたもの。 
正面に【左相州通大山道】、左側面に【此方二子通】、右側面に【右富士、登戸、世田谷通】と刻まれている。(雅散歩より)

世田谷線のホームです。どうして田園都市線に繋げなかったんでしょうか。同じ東急なのに ここが教学院の入口でしょうか。

東急世田谷線 概要

都電荒川線(東京さくらトラム)とともに東京都内に残っている軌道線であるが、
全線が新設軌道となっており、都電とは違い、道路上を走行する併用軌道はない。
駅間距離はすべて1km未満。
全区間乗車した場合の所要時間は17 - 18分である。

東京急行電鉄の鉄軌道路線で唯一、JR線(国鉄時代も含む)との接続や交差が全くない。
環七通りと平面交差する西太子堂駅 - 若林駅間の若林踏切(西太子堂5号踏切)では、信号(鉄道信号)が道路と同期している。
電車が来たら、環七の交通を止めるのではなく、信号(交通信号)が変わるまで電車の方を待たせる仕様になっており、
「信号待ちをする電車」は当路線を代表する光景の一つとなっている。
このように交差点と同様に、交通信号機の表示に従い、進行と停止を行う踏切は、第4種踏切(警報機も遮断機もない踏切)に分類される。
若林踏切は、東急電鉄唯一の第4種踏切でもある。
この踏切ではいわゆる「交通整理」が行われているので、道路交通側に一旦停止の義務はない。
かつては踏切警報機とワイヤーを使った昇開式遮断機が設置された電車優先の普通の有人踏切だったが、
環七通りの交通量の爆発的な増加で踏切近辺の渋滞悪化が顕著になったため、
1966年に警報機と遮断機が撤去されて信号機が設置され、現在の姿になった。
交差点の名称が「若林踏切」なのはその名残りである。




下高井戸駅への入口部分は急カーブのため、レールとの軋み音を低減するために列車の通過後に水を散布する設備があったが、
摩擦調整材(一種のグリース)塗布装置が設置されたため撤去された。
ただし、2014年3月現在では分岐器部分に水を撒く設備が設置されている。


歴 史

現在の世田谷線の区間は、
1925年(大正14年)1月18日に三軒茶屋駅 - 世田谷駅間が
玉川電気鉄道(玉電)の支線(下高井戸線)として開業したのに始まる。
同年5月1日には残りの世田谷駅 - 下高井戸駅間が開業した。
1938年(昭和13年)、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に合併され、玉川線となる。
そのため、現在でも玉川電気鉄道の略称、玉川線の愛称であった「玉電」と呼ばれることがある。

1969年(昭和44年)5月11日に玉川線の渋谷駅 - 二子玉川園駅間が廃止され、残った下高井戸線が世田谷線に改称された。
区間の大半が新設軌道であり、また並行道路の整備がうまくいかなかったことが廃線を免れた理由といわれる。
これに伴い、大橋(東京都目黒区)の車庫が利用できなくなったため、
上町駅のそばに車庫(雪が谷検車区上町班)が設置された。
また駅名に「玉電」と冠していた各駅(若林・上町・山下・松原)が「玉電」と付かない現在の駅名になった。

1992年(平成4年)11月11日、三軒茶屋駅前の再開発に伴って、
三軒茶屋駅が元々の位置(現在の三茶パティオ〈地下広場〉辺り)から若干下高井戸寄りに移動している。
そのため、現在の駅と西太子堂駅の間はきわめて近くなっている。      (Wikipediaより)




引退時のデハ80形

1999年(平成11年)7月11日より300系を導入し、低床車両を採用するとともにホームを嵩上げして乗降時の段差を解消した。
嵩上げは、全車両が300系に統一される前夜の2001年(平成13年)2月10日の終列車後に全駅で一斉に行われた。
なお、最初に導入した300系は旧型の車両と同じようなステップを持っていた(301F - 306F)。

2000年4月1日、世田谷線の鉄道ファンで構成される愛好者団体「世田谷線サポーターズクラブ」が発足した。

2001年5月からは、線路脇に草花を植える「世田谷線フラワリング」を実施している。
これは、車窓からの眺めを楽しくすることが狙いで、年に1 - 2回のペースで進み、
最終的には下高井戸駅まで到達することになっている。

2011年から、東京都交通局の都電荒川線と共同イベントを実施しており、
第1弾は同年11月に行われた「黄色い電車でハッピーに!」である。

2013年に全駅の照明がLED照明となった。
2019年3月25日から、運行や駅設備で利用する電力を100%再生可能エネルギーに切り替えた。
東北電力が提供する電力プランを活用したもので、
再生可能エネルギー由来100%の電力で電車を終日走らせる取り組みは日本初である。      (Wikipediaより)

目青不動尊 天台宗 竹園山 最勝寺 教学院
中に入って行きますと不動堂がありました。 納経所
扁額が三つ掛けられています。
扁額「元三大師」 扁額「不動明王」 扁額「閻王殿」
扁額「不動明王」 「目青不動尊」お前立ち 提灯「目青不動尊」
「目青不動尊」 お前立ち   本尊は秘仏として厨子に納められていて公開されていません。(雅万歩より)
脇侍の閻魔大王と脱衣婆は見えませんでした。
チシャノキ(萵苣の木)  若葉が食用でき、味が「チシャ(レタス)」に似ていることから(植物写真鑑より)

世田谷区名木百選に挙げられている「チシャノキ」がありますが、
青山から移転の際に、荷馬車で運ばれたというから、既に100年以上の古木ですって。
4月8日はお釈迦様のお誕生日ということで花祭りです。
「いまだに生花で飾るお釈迦様はココだけかも?」というくらい珍しいとか。
お釈迦様に甘茶をかけた後は私達も甘茶をいただけます。
甘茶はお経の最中にまくガクアジサイの葉を煎じており、熱々ではなく冷めたあたりから甘さが出てミントっぽい口当たりなんですよ。
(三軒茶屋 学ぶ 観るより)

名木百選 チシャノキ 
世田谷区 昭和62年選定
地蔵菩薩 獣  魂  塔
寛延己巳二月二十三日 夜叉塚 扉は閉ざされています。
不動堂の左手奥にある教学院です。
創建は1311年で
江戸城内の紅葉山にありましたが、
その後麹町、青山と移転した後、
明治42年より現在地に移転しています。
納経所 ここで御朱印をいただきました。
納経所 竹園山 最勝寺 教学院   田園都市線三軒茶屋駅↑