第十五番霊場 明王山 聖無動院 宝仙寺
関東三十六不動霊場
第十五番霊場 明王山 聖無動院 宝仙寺
中野不動尊

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平成廿三年七月廿四日


24日 東京大手町    最高気温  30.3℃   最低気温   22.7℃ 曇り時々晴

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明王山 宝仙寺

中野不動尊

師子慧(ししえ)童子

真言宗 豊山派


御詠歌

まいりきて

ねがふ心に

宝なる

仙楽ながき

法のひかりぞ

  寺紋 笹りんどう 御朱印 御影 師子慧(ししえ)童子


宝仙寺の歴史

『武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起』によると、
宝仙寺は 平安後期の寛治年間(1087~94)源義家によって創建されました。

このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。
その地は 父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である是を以って鎭となさば 則ち武運長久 法燈永く明かならん」と言いおわるや白狐となって去りました。
これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられます。

また、鎌倉時代には相模国大山寺の高僧願行上人が当寺を訪ねられ、本尊の不動明王像をご覧になってその霊貌の凡常でないことに驚かれ、あやまって尊像を穢してはいけないと厨子の奥深くに秘蔵せられました。
平素の拝礼には別の不動明王像を刻してこれに当てさせました。

その後、室町時代には当寺中興第一世聖永が現在の地に寺基を遷しました。
江戸初期の寛永13年(1636)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。

宝仙寺の大伽藍は昭和20年の戦禍により焼失。
現在の伽藍は昭和23年より順次復旧したものです。

宝仙寺の縁起
宝仙寺は、寛治年間(1087~94)、大宮八幡神社の別当寺として、源義家が創建したと伝えられています。
天正19年(1591)寺領15石の御朱印を拝領、慶安元年には23石6斗へ加増されています。
江戸時代には末寺32ヶ寺、門徒26ヶ寺を擁した中本寺格の寺院でした。

境内掲示による宝仙寺の縁起
武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起によると、宝仙寺は、平安後期の寛治年間、源義家によって創建されました。
このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり、陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。
その地は、父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地で、この造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え
「この珠は希世之珍 宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明かならん」
と言いおわるや、白狐となって去りました。
これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。
                     (境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による宝仙寺の縁起

境内1萬5052坪。
往還の内小名中宿下宿の境にあり。
明王山聖不動院と号す。
新義真言宗、無本寺にて天正19年御朱印15石を賜ひ、慶安元年8月17日8石6斗余を増して、都合23石6斗余の寺領となれり。
傳へ云、昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしかば凱陣の後、当寺を建立し給ふと云。
されど往古の事なれば其詳なる事をしらず、当寺昔は、和田村八幡(大宮八幡神社)の別当なりしが、社地への路程へだたりて不便なれば、末寺にその職をゆづれりと云。
されば八幡鎮座の時、当寺を起立して別当に附られしにや、中興開山を聖永といふ。
永享3年2月24日示寂す。
末寺32ヶ寺、門徒26ヶ寺を統べ司どれり。(中略)
本堂。
宝形作りにて、10間に9間南向、御座所2間に2間半。
御成の時御膳所なり。
本尊は不動の坐像にて、長1尺7寸5分。良弁の作。
外に四大明王の四体を安す。
木の立像にて長2尺3寸5分。
願行の作と云。古位牌1基あり。
碑面に云将軍頼義公信・信海将軍義家公信了と彫りてあり。
御成門。
本堂より西南の方にあり。
9尺四方。鐘のわたり、2尺7寸。
高5尺。牧野備後守の寄附なり。(中略)
阿弥陀堂。
本堂の西の方にあり、4間に3間東向、弥陀の本尊は坐像、長1尺5寸。
(中略)
観音堂。
境内西南の方にあり。
6間に3間の堂なり。
東向、本尊如意輪観音木の坐像にて長1尺1寸。
                         (新編武蔵風土記稿より)
宝仙寺所蔵の文化財
宝仙寺の石臼塚
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点と
なり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
                           (中野区商店街連合会・中野法人会)

通称、中野不動尊。
平安後期の寛治年間(1087~94)源義家(みなもとのよしいえ:通称、八幡太郎)によって創建されました。
義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中、陣中に護持していた不動明王像(伝・良弁作)を安置するための一寺を建立しました。
この地は、父・頼義(よりよし)がかつて祀った八幡社のある阿佐ヶ谷の地でこの造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一つの珠(たま)を与え『この珠は希世之珍 宝中之仙である是(これ)を以って鎭となさば 則(すなわ)ち武運長久 法燈永く明かならん』と言いおわると、白狐となってさったという。
これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。
鎌倉時代には本尊は秘仏となり、室町時代に現在の位置に移転しました。
江戸初期の寛永十三年(1636)には三重塔が建立され、江戸庶民にも親しまれ、歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。
明治期以降、境内には中野町(現・中野区)の役場が置かれていました。
伽藍は昭和二十年(1945)の戦禍により焼失。
現在の伽藍は昭和二十三年(1948)より順次復旧したものです。
                                            (散歩日和より)

                                                                                            


                                               
10時56分 JR山手線の電車から降りて 東京メトロ丸ノ内線のホームに行きました。 11時05分の電車に乗れます。
新宿で乗って中野坂上まで行きました。
山手通りと青梅街道
青梅街道から宝仙寺の寺号標が見え、その先に山門がありました。
  真言宗豊山派 明王山 宝仙寺                  山門                   仁王像 阿形像 金剛力士
仁王像 吽形像 密迹力士 仁王像 吽形像 密迹力士 仁王像 阿形像 金剛力士
三重塔と本堂 本堂 三重塔
三重塔 相輪 三重塔 

江戸六塔の一つ。
江戸初期の寛永十三年(1636)に建立されたが、昭和二十年(1945)の空襲により焼失。
平成四年(1992)、奈良・法起寺の三重塔を模した飛鳥様式の木造建築で、高さは焼失時とほぼ同じ約20mで再建されました。
塔内には大日如来と宝幢(ほうどう)、無量寿(むりょうじゅ)、開敷華王(かいふけおう)、天鼓雷音(てんくらいおん)の
五智如来(ごちにょらい)の彩色された木像が安置されています。


中野町役場跡

明治二十八年(1895)から昭和の初期まで
中野町役場が、また区役所が
境内に置かれていました。



石臼塚由来
 


挽臼74個、搗臼96個が使われていて、中には住職の故郷信州から持ち込まれたものもあるという。(石仏散歩より)
石臼塚
昭和の初めに冨田教絶大僧正が、路傍に打ち捨てられている石臼を見て、
長年人間のために働き続けてきた水車の石臼に対して、このような忘恩行為はいけないと、
これらを買い集められ、供養のために塚を築いたものだそうです。
現在,石臼は噴水塔として蘇っています。
頂上の石臼は,昔は甘酒をすっていたものだそうです。

見送り地蔵と六地蔵 堀江家の墓所  弘法大師千年御忌供養塔

弘法大師御遠忌に造立された二基の供養塔。
天保四年(1833)一千年御遠忌供養塔には、裏面に「ア・ビ・ラ・ウン・キャン」という大日如来の真言が梵字で刻まれています。
明治十六年(1883)一千五十年御遠忌供養塔には、長谷寺五十三世能化・守野秀善師による銘文がみられます。


見送り地蔵 引導地蔵尊 高野延命寺
引導地蔵坐像(いんどうじぞうざぞう)
見送り地蔵尊。
宝仙寺三十六世・祐厳が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ねて、
明和九年(1772)の夏に予修(よしゅう:生前にあらかじめ造立)したものです。
高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれています。
光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されており、これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、
入定の前々日の承和二年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされています。

見送り地蔵
三重塔の裏手、墓地への入り口に、お顔を西方に向けた、珍しい地蔵菩薩の石像がある。
亡くなった方々を極楽浄土に往生するまで見送るという慈悲の心を表わしているそうです。


くさよけ地蔵    〔疱瘡 天然痘 痘瘡 瘡神(くさがみ)平癒の信仰〕

石川正清顕彰碑
石川正清の門人が師・正清の業績を讃えるために、正清に二行の書と畧画を乞い造立したものです。
石碑の表面には『玉磨かざれば器を成さず、人學ばざれば道を知らず』の書と二つの宝珠を描いています。
四國十二番 寫 中野郡 寶仙寺

表側は読めません。
本堂
宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔とは、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼」に基づく石塔です。
本来は中に経典を収めるもので、造塔は平安時代からみられます。
石塔が盛んに造塔されるようになるのは鎌倉時代以降であるといわれます。
寛政八年(1796)8月22日に遷化(せんか)した、
宝仙寺住僧法印暁鑁の供養塔であると思われます。

本堂には、不動明王像を中心として五大明王が安置されていました。
左右の足で大自在天と烏摩妃を踏みつけるのが降三世明王。
蛇を装身具とする軍茶利明王。
五鈷杵と金剛鈴を持つ金剛夜叉明王。
水牛に跨るのが大威徳明王です。



当山秘仏の本尊は、天平年間、良弁大僧正の作と伝える。
その後、平安時代後期の寛治年間に源義家が開山創建。
義家は、奥州での後三年の役を平定して、凱旋帰京の途中にあり、
陣中に護持していた不動明王の尊像を安置するために一寺を建立した。
その地は、義家の父・源頼義がかつて八幡社を祭祀した阿佐ヶ谷の地である。
 この造成竣成の時、地主稲荷の神が出現して、義家に一顆の宝珠を与え、
「この珠は希世之珍、宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明かならん」
と告げるや、白狐となって去っていった。
これにより、山号を明王山、寺号を宝仙寺としたと伝えられる。
 鎌倉時代には相模国大山寺の高僧・願行上人が当寺を訪ねられ、
本尊の不動明王像を御覧になって、その霊貌の尋常でないことに驚かれ、
あやまって御尊像をけがしてはならないと、厨子の奥深くに秘蔵せられた。
そして、別の不動明王の尊像を自ら刻して、平素の拝礼には、この御前立を当てさせた。
これが、現在本堂に飾られている像である。 (四季歩のつれづれ)


本堂の五大明王像
本堂内陣の壇上には秘仏の本尊(天平期良弁作の不動明王像と伝えられる)に代り、
鎌倉時代の作と伝えられる不動明王の立像を中心に、
左右の足で大自在天と烏摩妃を踏みつけている降三世明王、
蛇を装身具のように巻き付けている軍荼利明王、
五鈷杵と金剛鈴を持った金剛夜叉明王、
水牛に跨がる大威徳明王の五大明王像が安置されています。

また、堂内の壁画や天蓋は日本画家の故澤田政廣氏によって描かれました。(宝仙寺HPより)

宝仙寺 寺紋 笹りんどう 修行大師像(しゅぎょうだいしぞう) 御影堂(みえどう) 
御影堂と弘法大師像
御影堂も三重塔と同じ平成4年に建立されたもので、屋根を宝形造りに外壁を蔀戸にしています。
堂内には背丈が2.4mの弘法大師像が安置されており、この像は脱活乾漆技法で平成4年に完成しました。
脱活乾漆技法は奈良・天平期にさかんに行われた技法で、興福寺阿修羅像や唐招提寺鑑真和上像などと同じ技法です。
高価な漆を大量に使用するこの技法での大きな造像は、天平期以来のことだといわれております。(宝仙寺HPより)

日輪弘法大師標柱

御影堂前に安置されている日輪弘法大師の標柱。
元は大師堂付近にありましたが、平成四年(1992)御影堂建立に際して現在地に移動しました。

石柱の正面には「日輪弘法大師」と刻まれていますが、
日輪の「輪」の字は車偏でなく、あえて車を横向きの冠としており非常に興味深いものです。
石柱左面の銘文から文化十一年(1814)4月に常眞言堂(大師堂の別称)三世祐峯和南師によって造立されたことが知られます。
(宝仙寺HPより)

「日輪」の「輪」の車偏を頭に寝かせて冠とし、「輪」と読ませるのが、面白い。
右側面「御府内八十八箇所十二番阿波國焼山寺之寫」
左側面「文化▢一年甲戌四月明王山寶仙寺常真言堂三世祐峯和南」
当寺が、御府内十二番札所であることが分かる。
(石仏散歩より)

新四國霊場三千人講中供養塔

本堂西側に安置される石塔。
文久二年(1862)三月二十一日、宝仙寺第46世良道師の代に造立されたものです。
新四國霊場三千人講は、幕末の四国八十八ヶ所に関する石塔造立に関わった人々によって構成されていると考えられます。
塔身の裏面には、「ア・ビ・ラ・ウン・キャン」という大日如来の真言が梵字で刻まれています。
現在は、安全性を考慮し、塔身と一つの台石のみが安置されていますが、元はもう三段の台石が重ねられていました。
全ての台石を合わせると個人・寺院名など1176件の名が刻まれています。
(宝仙寺HPより)


聖徳太子孝養像
聖徳太子孝養像は、昭和19年(1944)、東京土木建築組合によって建造された。
昭和19年といえば、太平洋戦争終盤、造立理由が裏面に刻されている。

「大東亜戦争勃発シ、其進展ニ伴フ国家ノ要請ニ基キ企業整備ノ為昭和十九年三月本組合ヲ
解散スルニ當リ記念トシテ太子ノ尊像ヲ建築シ・・・」

もともと、大工、左官、鍛冶職などの太子講は、一月、八月の祭日に集まり、
太子の掛け軸を拝した後、賃金の協定や申し合わせを行ってきた。
(石仏散歩より)

八十八大師塔      (写真 四季歩のつれづれより)
 本堂西側に安置される八十八大師の塔。
八十八大師は四国八十八ヶ所にそれぞれ一体の弘法大師を当てたもので、
八十八体を独立した石で刻むものと、一塔にまとめるものがあります。
当寺のものは後者にあたり、四段組の石の片面に二十二体の弘法大師を刻み、四面合計で八十八体としています。
頂上には虚空蔵菩薩が安置され、蓮華座の下に八角形の台座を配しています。
八角形台座には金剛界四仏・胎蔵界四仏の種子(しゅじ:仏様をあらわす梵字)が浮彫されています。
下部の台石には四国八十八ヶ所八十八番大窪寺(医王山遍照光院)の
御詠歌(「南無薬師諸病無かれと願いつつ参れる人は大窪の寺」)が記されています。(宝仙寺HPより)


四国八十八箇所
向かって左から、四国八十八箇所第58番の仙遊寺(せんゆうじ:本尊・千手観世音菩薩)と
第71番の弥谷寺(いやだにじ:本尊・千手観世音菩薩)の石碑、
四国西国秩父坂東諸国霊場 壹阡八拾八ヶ所巡拝記念塔が並ぶ。


脱活乾漆技法で作られた弘法大師坐像が
祀られています。
宝仙寺の三重塔は江戸初期の寛永13年(1636)に建立され、
廣重の浮世絵「江戸名勝図会」にも描かれたほど有名でした。

しかし、昭和20年の戦火により一切を焼失してしまい、
現在の三重塔は平成四年の秋に再建されたものです。
奈良・法起寺の塔に範をとった飛鳥様式の木造建築で、
大きさは焼失した塔とほぼ同じで約20mあります。

塔内には大日如来と宝幢、無量寿、開敷華王、天鼓雷音の五智如来の彩色された
木像が安置されています。(宝仙寺HPより)

年代は不明だが、明治以降のものか。
笠部に菊と桐の半分ずつを合わせた紋が
彫られている。
菊桐御紋は、国章。
なぜ宝仙寺にあるのだろうか。
(石仏散歩より)

関東三十六不動霊場  納経所 三重塔と大銀杏
大師堂 参道を進んで東京メトロ中野坂上駅から地下鉄に乗りました。



僧兵行列と大護摩供 平成31年2月3日参拝 (東京の御朱印より)
僧兵は法螺貝を吹きながら宝仙寺に入る。 御一行は護摩壇前の参列席へ腰を下ろす。 お経が唱えられる。
燃え盛る護摩壇に護摩木を投げ入れます。  護摩壇の煙が天に上がっていきます。 僧兵たちの退場