第九番動霊場 高幡山 明王院 金剛寺 高幡不動尊
第九番霊場 高幡山 明王院 金剛寺 高幡不動尊

アクセスカウンター

平成廿二年十二月廿五日

25日 八王子       最高気温  9.4℃   最低気温  -2.3℃ 快晴
25日 東京大手町    最高気温  9.7℃   最低気温   2.2℃ 快晴

秩父・最上・西国・坂東札所・お遍路へ 関東三十六不動霊場toppageへ



高幡山 金剛寺

高幡不動尊

召請光童子

真言宗 智山派

御詠歌

 護摩の火に
  無明もつきて
   高幡や
 阿遮窟堂に
  仰ぐ月影
御朱印 御影 召請光(ちょうしょうこう)童子

お寺の縁起

真言宗智山派別格本山。
高幡山 明王院 金剛寺は、古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。

その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に
慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。

のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で
関東稀に見る古文化財である。

続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。

足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、
火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。

当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。

その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等の工事が相継ぎ
往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。

総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。



                                                        
13時54分 京王線高幡不動駅に着きました。
駅前に出ると高幡不動参道がありましたのでそこを真っ直ぐ進みました。 すると14時02分仁王門の交差点に出ました。
扁額「髙幡山」が中央に掲げられ、左右には阿吽の仁王様が厳めしいお顔で立っていました。
重要文化財
金剛寺仁王門
仁王門は室町時代に当初、楼門として計画されたが、途中何らかの理由で計画変更され、
上層の主要部を覆うような形で屋根がかけられ、近年まで外観は単層であった。
昭和34年、解体復原修理の際、楼門として復原され、銅板葺となった。
仁王尊は室町時代のものと推定されている。
楼上の扁額(高幡山)は江戸時代初期の運敞(うんしょう)僧正(号泊如)の筆である。
昭和58年3月1日     日野市教育委員会
旗かけの松
源頼義が前九年の役(1051-1062)で奥州征伐に向かうとき
戦勝祈願で軍旗を立てかけたと伝えられる松(これは2代目)
調べて見るとこの源頼義は八幡太郎義家の父。
本堂で般若心経・お不動様の真言を唱え、お詣りをしました。
 
丈六不動明王坐像  
南無大聖不動明王
土方歳三の像 大きな五重塔が聳えていました。
奥殿入口  丈六不動三尊参拝口


大日如来像帰山

古来日本一と伝えられる
重文 丈六不動三尊(平安時代)
自由参拝入口 午後五時まで
日野七福神めぐり
恵比寿天 真照寺
福禄寿 石田寺
毘沙門天 安養寺
弁財天 高幡不動尊
寿老尊 延命寺
大黒天 善生寺
布袋尊 宗印寺
元旦~七日まで
主催 日野七福神会
後援 日野市観光協会・京王電鉄株式会社

東京都指定 有形文化財 金剛寺旧五部権現社殿
所在 日野市高幡七三三番地
指定 昭和三十五年二月十三日

『新編武蔵風土記稿』巻一0六、高幡村不動堂の条に
「五部権現祠、同辺ニアリ、三尺四方ノ宮作ニシテ
覆屋アリ。境内ノ鎮守ナリ。祭神ハ八幡、稲荷、丹生、
高野、青龍権現ノ五座ナリ」とあり、もと暦応三年(1340)三月の
刻銘のある木製五部権現神儀(重要美術品)を祀っていた。
構造形式は、一間社流造り鉄板葺きで、桁行一・五二メートル、
梁間一・三0メートル。
江戸時代初期の宮造りとして類例少なく、貴重である。
東京都文化財保護条例(昭和五十一年三月三十一日改正)により、
文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、
石造標識については、このように読み替えてください。
昭和五十二年十一月三日 建設
             東京都教育委員会


五部権現社
康平五年(1062)源頼義奥州征討(前九年の役)より凱旋の途次この寺に参拝し八幡宮を祀って寺の鎮守とした。
のち四社を合祀して五部権現という。
安置の神牌五基は重要美術品(昭和十三年指定)で暦應三年庚辰三月二十八日(1340)の銘が刻まれ、本地垂迹説の好資料である。
現社殿の建立年代については明らかではないが、室町期と推定され、
東京都重宝(昭和三十四年指定)仝三十五年復原修理を施し、平成六年現在地に移建した。
民間にやけど除けの信仰が伝えられている。

本地垂迹
本 地 (裏)
虚 空 蔵 菩 薩
如 意 輪 観 世 音
金  剛  菩  薩
大 日 如 来 (金)
大 日 如 来 (胎)

垂 迹 (表)
稲 荷 大 明 神
清 滝 大 権 現
八 幡 大 菩 薩
高 野 大 明 神
丹 生 大 明 神

茶室 知足庵
鳴り龍 拝観
大日堂鳴り竜・八福神拝観入口
大日堂 本堂
鐘楼堂
五屯の大梵鐘が吊してあります。
(急階段昇降禁止)
お鼻井戸
建武二年(1335年)八月四日夜の大風の為、不動堂が倒れた折
不動尊像が落ちて鼻をついた所と伝へられている。
五重塔

扁額「金剛浮図」
「浮図」(ふと)は「仏陀」と同様に、「ブッダ」の古い当て字

観世音菩薩  タイ国の仏様です。
胎蔵曼荼羅
金剛界曼荼羅
土方歳三の像   金剛寺は土方歳三の菩提寺です。 日野七福神 弁財天

高幡不動尊金剛寺の歴史と文化財


真言宗智山派別格本山 高幡山明王院金剛寺は、古来日本一と伝えられる木彫の丈六不動三尊像をご安置する寺で、
高幡不動尊と呼ばれて親しまれている。
古文書等に大宝以前の草創、行基菩薩の開基と記されているが、平山時代の初期に慈覚大師(円仁)が清和天皇の勅願によって
当地を東関鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立したのに始まる。
後、建武二年の大風によって山中の堂宇が倒壊し、時の住僧儀海上人が麓に移建したのが現在の不動堂で、
室町時代再建の仁王門も関東有数の古建築である。
鎌倉時代以降の高幡不動尊は十院不動堂とも呼ばれ、真言宗武蔵方の名だたる談議所(学問所)であった。
江戸時代安永八年の大火で大日堂を始め多くの伽藍と重宝を焼失したが尚、約二万点の古文化財を蔵している。
高幡不動尊は新撰組の副長、土方歳三の菩提寺で境内地は三万坪余り、史蹟・文学碑も多く 桜(三00本)
あじさい(七、五00株)もみじ(古木三五0本・若木一、000本)の名所でもある。
山内に八十八ヶ所の弘法大師像がまつられ約一時間で巡拝できる。

主 な 指 定 文 化 財
●建造物 不 動 堂 重要文化財  鎌倉~南北朝時代 
仁 王 門 重要文化財  室 町 時 代
五部権現社殿 都指定文化財  江 戸 時 代
●仏像 不動明王像 重要文化財  平 安 時 代
矜羯羅童子 重要文化財  平 安 時 代
制吒迦童子 重要文化財  平 安 時 代
●仏画 弁財天十五童子 都指定文化財  室 町 時 代
●工芸 鰐    口 重要文化財  鎌 倉 時 代
五部権現神牌 重要美術品  南 北 朝 時 代
●古文書
 聖経類

 
弘法大師二拾五箇條
ご 遺 告
重要文化財  平 安 時 代
勧 進 状 重要文化財  室 町 時 代
像内文書(六十九点) 重要文化財  南 北 朝 時 代
理趣経曼荼羅 重要美術品  鎌 倉 時 代
八箇大事(勝覚筆) 重要美術品  平 安 時 代
神護寺経
(不必定入定入印経)
重要美術品  平 安 時 代
金剛寺文書(四二0点) 都指定文化財  江 戸 時 代
●その他 大日如来像・地蔵菩薩像・三沢十騎衆文書、殉節両雄の碑
(新選組顕彰碑)等約八千点が市の文化財に指定されている。

扁額「降魔殿」
緑色の袈裟を着た僧侶が急ぎ足で降魔殿に入って行きました。
15時12分 多摩モノレールの高幡不動駅からモノレールに乗りました。
多摩モノレールに乗るのは初めてでした。
15時23分立川北駅に着きました。
夕食を摂り、パレスホテルに泊まりました。