関東三十六不動霊場
田 無 神 社

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平成廿二年十二月廿六日


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     田無神社

      御祭神
   
     大国主命
     須佐之男命
     猿田彦命
     八街比古命
     八街比売命
     日本武尊命
     大鳥大神
     応神天皇

御朱印(田無神社のHPより)

                             縁起


 田無神社の創立は正応年間(建長年間説もありますが、いずれも鎌倉期、十三世紀)です。
谷戸の宮山に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれていました。
ご祭神は龍神様です。
 時代は下り、徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、城、町建造のために大量の石灰(壁の材料)を必要としました。
家康はそれを青梅の地に求め、青梅街道を開きました。
その際に、肥沃な谷戸に住んでいた人々は、こぞって1kmほど南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営したのです。
 
この様な歴史の中で、人々は宮山に鎮座する尉殿大権現を、まず元和八年(1622年)に上保谷に
分祀し、正保三年(1646年)に宮山から田無(現在の地)に分祀し、寛文十年(1670年)には、
宮山に残っていた尉殿大権現の本宮そのものを田無に遷座しました。
 さらに、尉殿大権現は明治五年(1872年)に熊野神社、八幡神社を合祀し、田無神社と社名を改めました。
 その際に、主祭神・大国主命と須佐之男命(すさのおのみこと)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、
八街比古命(やちまたひこのみこと)、八街比売命(やちまたひめのみこと)、
日本武尊命(やまとたけるのみこと)、大鳥大神(おおとりのおおかみ)、応神天皇(おうじんてんのう)を
お祀りして、現在に至っています。


                                                                                                                                                               
総持寺から青梅街道に出てすぐの処に田無神社がありました。

田無神社 東京都指定有形文化財
      本殿・拝殿
彫工 嶋村俊表作 安政六年(1859)

田無神社本殿は入母屋造りの銅板葺きで、唐破風、
千鳥破風をあしらった総欅造り、そして組物は三手先という、
江戸期を代表する神社様式の社殿です。とりわけ彫刻
装飾が美しく周囲の扉、欄干、柱、長押など隅々にまで大胆で
繊細な彫り物がほどこされています。まさに江戸期の粋を
集めた木彫建造物といえるでしょう。この本殿は江戸神田の
名工嶋村俊表によって造られたものです。嶋村家は当時「江戸彫
物御三家」の一つで、石川家、後藤家とともに隆盛を誇っていた名門
でした。俊表はほかに川越の氷川神社(県指定重要文化財)や成田山新勝
釈迦堂(国指定重要文化財)などの名作を残しましたが、この田無
神社の本殿には円熟期の俊表の技量がみごとに発揮されて
います。誠に嶋村俊表の代表作と申せましょう。
              東京芸術大学 学長 宮田亮平

神心の碑
中央にお立ちになり、神の碑、心の碑にご自身を映し出しお清め下さい。
田無神社 五龍方位守護 御神体
青  龍
東方(北東位)の守護
 

田無神社の御神輿

中央の本社御輿は彫刻があ極めて美しく造型が雄大であり、
関東で三本の指に入ると言われております。
両脇の輦台御輿は江戸期のもので室町代様式を残した文化財としてもたいへん貴重な御輿であり、
市重宝の獅子頭が納められております。

御神輿

西東京市指定文化財第十号

獅子頭(二頭)

嘉永三年(1850)制作

田無神社に保存されている獅子頭(雄獅子・雌獅子各一頭)は、嘉永三年(1850)九月に制作され、
元治元年(1864)四月、修理されていることが獅子頭の内部に漆書きされています。
この獅子頭が制作された時代は、欧米の列強国が開国を迫ってきた時期で、国内は騒然としていましたが、
田無村は宿場として最も繁栄し、また、天領(幕府直轄)農民としての意気も盛んな時代でもあり、
獅子頭はこれを象徴したものと考えられています。
二頭の獅子頭は、上宿と下宿が毎年神楽を競い、豊作か凶作かを占うときに備えられたということですが、
その後、雨乞いの獅子として村人から信仰されていました。
獅子頭の外形は大きく金箔で仕上げられ、美術的な価値も高く評価されています。

昭和四十五年七月

西東京市教育委員会


楠木正成公像

南北朝時代(1336〜1392年)に後醍醐天皇の命に応じて兵を挙げ、
幕府の大軍と戦った楠木正成公は戦の神としてあがめらてきました。
楠木正成公の子孫は、その後、武蔵の国保谷に移り住み、
尉殿大権現(田無神社)の御分社である尉殿神社をお守りしたと伝えられております。
そのような歴史の中で楠木正成公像が尉殿大権現(田無神社)にお祀りされました(成立年代不詳)。
以来、戦士は像をくだき、お守りとして戦場に臨んだと伝えられています。

この土俵は昭和の大横綱であった故大鵬幸喜親方が
平成五年に田無神社五穀豊穣祭を記念して開いた土俵です。
大鵬親方は、平成十一年には田無神社崇敬会初代会長に、
その後田無神社崇敬会名誉会長に推戴されました。
また、平成十二年に還暦を迎えたことを機に、
親方はこの土表を大鵬と命銘しました。

御祭神 塩土老翁命
塩竈神社
安産の神様

塩土老翁(しおつちのおじ)神は
山幸彦が海幸彦の釣り針を無くし
困っていた所に現れて助けた神とされる
海の神です。
他にも神武天皇に大和の話を伝え
東征にお導きになったとも記され、
航海や遠征の守護神的な側面を持ちます。
安産 虫封の御利益があります。


平成十三年四月鹽竃神社(安産の神様)の
御賽銭箱にシジュウカラが卵を産むという
吉兆があり、同年十二月一日に
敬宮愛子内親王殿下が御誕生になりました。


御祭神 煩大人命(わづらいうしのみこと)
煩 大 人 神 社
除災の神様
稲荷大明神

野分初稲荷大社


室町時代より続く古社

野分初の
      霊験さきはふ
       稲荷かな


田無神社 七福神

大国さま
 大国主命

恵比寿さま
 少彦名命

商売繁昌・家内安全・開運招福

田無神社七福神
(市)天然記念物
御 神 木
ご神気を
お授り下さい。
  宮司 拝


御神木
田無神社七福神

弁天さま 須勢理毘売命
技芸上達 

御祭神 素 鳴命
津嶋神社
厄除の神様
子育の神様



津嶋神社には茅の輪がありました。

津嶋神社の御社


津嶋神社の現在の御社は、同じ御祭神(素 鳴命)が
祀られている。江戸神社の御社を、神田神社の御厚意によって
平成三年にお譲りいただいたものです。
江戸神社は江戸地域最古(西暦721年)の創立で
元は江戸城(現在の皇居)の中に鎮座されておりました。
移築修復の設計は松本省蔵により向拝柱の青龍の
彫刻(一本の木から柱ごと彫り込んであります)は
酒場玄進とその弟子小野寺武男により、
彩色は片岡?二によります。
「やすらぎの場としての神社」境内整備計画は
当御社の移築から始まり、平成七年十月を以って
完了いたしました。
御奉納下さいました氏子崇敬者の御芳名は
「神心の碑」の裏面に刻まれております。
  
平成七年十月吉日     感謝
               
田無神社 宮司 賀陽 濟


子育て

親子石

吉例により 新嘗祭 十一月二十三日から
        節分祭  二月三日迄毎日授与
田無神社 一番札 
一楽萬開
本年吉方か玄関内に祀るが
              大吉を招く
白龍の水

田無神社境内の
深い井戸から汲み上げた
貴い御神水です。

尉殿大権現
田 無 神 社 由 緒 記

田無神社は正応年間(鎌倉期十三世紀)に谷戸の宮山に鎮座し、
尉殿大権現と呼ばれていました。時代は下り、徳川家康が江戸
幕府を開くにおよび、当神社は元和八年(一六二二年)に上保谷
に分祀し(尉殿神社)、さらに寛文十年(一六七0年)に現在の地に遷
座し、明治五年に田無神社と改称して現在に至っており
ます。
御祭神の尉殿大権現は、すべての命の源である水と、
よろずの災を拭う風を司る豊穣と除災の守護神で、
その御姿は金龍神として顕現いたします。
金龍神、赤龍神、白龍神、黒龍神の中心となり、その御
神威をいや高めに高め、あらゆる災難、悪しき方位の障りを
祓い除けて下さいます。
田無神社には大国主大神も主祭神としてお祀りされ
ております。大国主大神は、厄除、商売繁昌、学業成
就、病気平癒、縁結び、国土開発の神様で世に福の神と
呼ばれ、その御神徳の高きご慈愛の深さは計り知れま
せん。また須佐之男命(厄除、子育ての神)猿田彦命、
八衢比古命、八衢比売命(交通安全の神)日本武尊命、大鳥大神(開運
の神)応神天皇(外国文化を導く神)を合祀し、さらにすべての神々をお祀りして
おります。

田無神社 五龍方位守護 御神体

白  龍

西方(南西位)の守護

     東京都指定有形文化財
      田無神社本殿・拝殿
                所在地  西東京市田無町三丁目七番四号
         指  定  平成十二年三月六日

 
田無神社の創建は鎌倉時代(十三世紀)と伝えられ、江戸時代初期ま
では田無村字谷戸に鎮座し、尉殿権現社と呼ばれていたが、青梅街道の
整備されることに伴い、寛文十年(1670)に現在の地に遷座した。
 尉殿内に現存する一間社入母屋造り向拝付の本殿は、本殿身舎の正面
と背面は千鳥破風、前面の向拝の軒は唐破風をあしらい、屋根には銅板
を葺いている。本殿が建立された年代等については、市内田無町の下田
家所蔵文書から、名主下田半兵衛等が大工棟梁鈴木内匠と彫工島村源蔵
(俊表)に依頼して、安政五年(1858)に着工し、翌安政六年に完
成したことが判明している。
総欅造りといわれている本殿は、斗を三段に組んで軒や縁を壁面から
突出せる三手先組み建築形式が多用されている。さらに、本殿の柱や壁
には龍、漠、象、獅子などの動物と二十四考(中国の元代にまとめられ
た親孝行を説いた説話)に関係する彫刻が隅々までほどこされており、
江戸時代の堂宮建築が到達した高度な大工技術と円熟した彫工の技量が
相まった優れた建造物である。
 また、拝殿は棟策と前後殿境の透し彫り欄間裏側に賀陽玄順が記した
墨書から、地元の大工高橋金左衛門等によって、明治八年(1875)
に竣工したことが明らかとなっている。本殿に劣らぬ気迫と技量によっ
て造営されており、明治の初期において、地域の大工技量がなお高い水
準を保っていたことを示す貴重な遺構である。

平成十三年三月三十一日 設置

東京都教育委員会
史跡 賀陽玄節邸跡
(現 コール田無)
田無周辺の医療と教育の発祥地
文政六年(1823)に備前(岡山県)の池田藩侍医賀陽玄節が
諸国修行の途中田無に立ち寄りました。当時、田無周辺には
医師がいませんでした。困っていた名主下田半兵衛(富永)は
賀陽玄節に目をつけて村の医療に手を貸して欲しいと
頼みました。すると村内ばかりではなく周辺の農村からも
多くの病人がやってきました。 玄節は備前から家族を
呼び寄せて、田無に永住することになり、以来、名主譜代の
待遇で田無の村医となりました。
 その子賀陽濟(1821〜1895)もまた医師を志して
修行のため、まず江戸昌平坂学問所で安井息軒に学び
長崎まで出向いて医学を修めました。
濟はまた俳人でもあり、昨烏庵丹雪と号しました。
また、医療のかたわら明治維新後に学制が発布されるまで
手習い所を営み、農村子女の教育に当たりましたが
遠く八王子から通ってくる子女もいました。
濟は弟子たちに慕われ、生存中に弟子たちによって
「昨烏庵賀陽夢香居士碑」が総持寺境内に建てられ
ました。また、濟は能書家でもあり、その筆跡は今でも
市内の各所で見られます。後に濟は田無神社の初代宮司
となり、その後、賀陽家が代々宮司職を継いでいます。
「たなし郷土かるた――解説文集――」参照、抜粋

田無神社 五龍方位守護 御神体
赤 龍
南方(南東位)の守護
銭   賽 石段
石段と石垣
田無神社の石段と石垣は鎌倉初期に
創建された田無神社(尉殿大権現)が
江戸初期にこの地にご遷座された際に
築かれたと伝えられています。
ひとつひとつの石がすべて手で削られ組み
合わされ絶妙な調和が奏でられ
ております。
江戸初期の職人のみごとな技をここに
見ることができます。
石段 鳥居
真言宗 智山派 田無山 總持寺 總持寺 總持寺山門