常光山 西光院 源覚寺 浄土宗 本尊 阿弥陀三尊 |
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御朱印 |
こんにゃく閻魔の言い伝え 閻魔さまは、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。 源覚寺の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。 それにはこんな言い伝えがあります。 宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。 満願の日に、老婆の目は治りました。 以来、大王の右目は盲目となりました。 老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ちそれを供え続けたということです。 このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。 (源覚寺HPより) |
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源覚寺の歴史 源覚寺は380年余り前の寛永元年(1624)定誉随波上人により現在地に開創されました。 その間には、「明暦の大火(1657年)」、「お薬園火事(1762年)」、「戸崎町火事(1774年)」、さらに「富坂火事(1884年)」と、四度もの大火に見舞われました。 幸いにも、ご本尊も閻魔さまもその都度、難を逃れることができました。あの太平洋戦争の東京大空襲でも本堂への延焼はまぬがれました。 源覚寺門前一帯は「こんにゃくえんま門前」としてにぎわい、江戸時代から続く縁日には近隣からの人々も押しかけ活気にあふれます。 (源覚寺HPより) |
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源覚寺の縁起 源覚寺は、了蓮社定誉随浪上人伝通院三世が隠居所として寛永元年(1624年)に創建したといいます。 |
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「小石川區史」による源覚寺の縁起 常光山西向院源覺寺。 浄土宗鎮西派、知恩院末。 本尊阿彌陀如来。 當寺は傳通院第三世定譽随波上人が二代将軍秀忠公へ隠居所として願出で、寛永元年に開いたのが始めで、文政頃には境内拝領地千三百四十四坪あつた。 地内に古来閻魔堂があり、眼病に驗があると云ひ傳へ、コンニヤクを供物とするので俗に『コンニヤク閻魔』と云はれ、現在に於いても其名が高く、特に正、七兩月の十六日は賽者で賑つてゐる。 寺内にはこの外鹽地蔵と稱するものがあり、又幕府の外國奉行たりし堀織部正利煕の墓がある。 (「小石川區史」より) |
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文京区史跡さんぽ実施報告書による源覚寺の縁起 |
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源覚寺は〝こんにゃくえんま″として、江戸時代から庶民に親しまれてきた寺である。 江戸時代から16日が縁日で、今日も大変にぎわっている。 本尊の閻魔王坐像は眼病にきくと言われ、今でも参拝者が絶えない。 そのいわれは、宝暦の頃(1751-64)、眼病をわずらった老婆が、この間魔王に21日間祈願した。 満願の日、老婆の夢枕に閻魔大王が現われ「われの日月に等しい両眼のうち一つをえぐりとって、汝に授くべし」と告げた。翌日老婆の眼は完全に治っていた。 しかし、閣魔大王の右眼は黄色く濁っていたという。 そこで老婆は感謝の意を、こんにゃくを絶つことであらわした。 これが「こんにゃくえんま」と呼ばれる由縁である。 像は鎌倉期の作で、寛文12年(1672)修理の名があり、文化財的価値は高い。 この「こんにゃくえんま」を舞台にした文学作品をいくつかあげることができる。 森田草平の『煤煙』、樋口一葉の『にごりえ』、夏目漱石の『こころ』などである。 漱石の 『こころ』は、大正3年(1914)の作である。 「こんにゃくえんま」付近の描写を要略してみると、次のように記されている。 先生は下宿を出て、本郷台を西へ下り、小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がった。 電車が通ってから、周囲の様子は一変した。 左手に砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面生えていた。 先生は革の中に立って、眺めた。 見渡す限り緑が一面に深く茂っていて、神経が休まった。 今から、八十余年前ぐらいの富坂あたりの風景である。 先生はやがて、日清戦争の時、ご主人をなくした未亡人と娘の二人暮しの家に下宿する。当時本郷辺は高等下宿といったふうな家がぼつぼつ建てられていた。 やがて先生は同郷のKを同宿させる。 先生と下宿のお嬢さんとは、交渉が深くなっていく。 11月の寒い雨の降る日、先生は外套を濡らして、例の通り蒟蒻閻魔をぬけて、細い坂路を上って家に帰った。 Kの部屋には人かげがなかった。 奥さんにKのことを聞くと、一度帰ってまた出たという。 先生もふと、にぎやかなところに行きたくなった。 当時は坂の勾配が今よりずっと急であった。 道幅も狭く、真直ぐでなかった。 そのうえ、谷へ下ると、南が高い建物でふさがり、水はけが悪く、往来はどろどろだった。ことに細い石橋を渡って柳町の通りへ出る間がひどかった。 むやみに歩くわけにいかず、路の真中に自然に細長く泥がかきわけられたところを、後生大事にたどって行った。 ここで先生はKに出会った。Kと先生は細い路で身体をかわした。 Kのすぐ後に若い女が立っていた。その女の顔を見ると、それは家のお嬢さんであった。初寒の雨に濡れた心にKに対する猜疑心が高まっていく。 最後にKが自殺し、そこに追いつめた自分にいや気がさし、先生は遺書をしたためるのである。 当時の小石川、こんにゃくえんま周辺の様子が活写されている。 (文京区史跡さんぽ実施報告書より) |